このブログは記事の区切りがつく度投稿しているので、最初から読む場合は投稿日順

つまり古い順に読むことをおすすめします


左にあるラベル毎に続き物の話をまとめています

2014年3月4日火曜日

ロシアは何故軍事行動までしてウクライナに構うのか?

ウクライナが話題なので、これをお題に記事を書いてみましょう。

現在、ウクライナでロシア軍が軍事行動の準備をしていますが、これは何故なのか。
これを語るためにはウクライナとロシアの歴史から語らねばなりません


ロシアは、ロシア=ツァーリ国、つまり1500年頃から不凍港が欲しかったのです。
港があれば交易のための輸送力も上がり、輸送のためのコストも落ちます。

18世紀中頃には港の必要性が更に上がり始めます
産業革命が始まることによって農業に従事する人の数が減ったために
西ヨーロッパでの食糧生産量が減少。
西ヨーロッパはロシアを含む東ヨーロッパから食料を輸入しなければならなくなりました

当時大規模な農奴制を実施していたロシア帝国は農奴への扱いを更に厳しくして食料を輸出
農奴制とは何だったのか、最早ただの奴隷と変わらない扱いがなされ、
当時の新聞には
裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などという広告が掲載され、
土地に紐付けされることが前提のはずの農奴が土地から開放されることによってただの奴隷と化していました
「貴族の天国、農民の地獄」とはよく言うもんで、
フランスで革命が行われ人権宣言等が誕生する一方で、
その裏側では奴隷制を強化して貴族が食料を搾取し、輸出してロシアで農民が餓死するという有り様。
皮肉なもんです


まあ、その辺の理由でロシアは不凍港が欲しいわけですが、
ロシアの海岸線のほとんどは北極圏なので流氷が漂っています
かつて、北極海が海だと分からなかった頃に様々な国の人々が北極海に挑んでは死んでいきました
これは、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易路は香辛料取引を中心に儲かるルートだったからですが、
喜望峰を通るルートは、長距離航路の補給拠点をポルトガルとスペインが抑えており、
オランダやポルトガルに税金だの利用料だのを払い、
割高な補給物資を買わされていました。

大西洋からメキシコ経由の太平洋回りは遠洋航海の技術が未発達で、確実性に乏しい上、
当時の船や補給能力ではあまりに距離が長すぎました

陸路、つまりシルクロードはイスラム世界、今の中東を通る必要があり、現地の国が交易路を抑えていて、関税をやたら取るので儲けに乏しい。

逆に、これらを回避するルートを開発すれば大儲けが期待できるわけです。
この点にロシア含めイギリス等の国も興味を持ち、北極海探検を始めたわけです

当時は「夏なら白夜によって常に太陽光が当たり、流氷は溶けるのではないか」と思われていたようですが
小氷期というのもあって、夏でも流氷が浮いています。
結局、ロシア北方北極海周り航路は失敗に終わりました。

小氷期が終わったとされる現代でも減少しているものの、北極海には多くの流氷があり
普通の商船で通過することは出来ません
(原子力)商用砕氷船だの一部の軍艦だのは通過できますけど。

そして、17世紀に入ると商人ではなく当時、武装組織兼民族集団と化していたコサックが
シベリアへ、東シベリアの探索を開始します
どうも毛皮が目的だったようで毛皮が取れなくなって無人地帯への移動をしたようです

18世紀も中頃、清から得たウラジオストクに入植されて、ようやく国内に使える港が出来たかと思えば
そこは太平洋もとい日本海、アジアへの入り口でした。
そもそも西ヨーロッパ
因みに、陸路での中国への交易ルートがこれによって完成したため、それによる儲けは結構あったそうな


と、いうことで北極海には港が作れませんでした。


例外として、暖流によって冬でも凍らないムルマンスクのみが北極海に面する大規模な不凍港となりました。
しかし、ムルマンスクは西ヨーロッパに対して遠すぎる。
なんせスカンジナヴィア半島を回ってこなければならないのですから。
利点があるとすれば、他国に影響されずに大西洋に出れるところでしょうか。

ではそのたの不凍港、西ヨーロッパに近いバルト海側はどうだったのか。
サンクトペテルブルグは1700年頃までスウェーデン領で、
その後、港湾都市として、帝政ロシアの首都としてサンクトペテルブルグが建設されました。

しかし、バルト海を利用するにも幾つか欠点がありました。
敵対するノルウェーやデンマークがバルト海の出口を抑えているため、
海軍は自由に外に出れないし、商船が通過するときも通行税が取られます。

少なくとも、軍事的には不利な位置になります。海軍力を西ヨーロッパに展開するのは
かなり難しいと言わざるを得ません。

だったらロシアのもう一方の海、黒海はどうなのか。
クリミア半島をオスマン帝国から戦争で分捕り、不凍港を確保したのはいいのですが、

はてさてその黒海も外に出るにはオスマン帝国、イスタンブールを通過しなければならない
やっぱり通行税を取られ、海軍は自由には外に出れません。

時は流れて革命により帝国が終了、ソ連が生まれます

ソ連は非常に高い軍事力で周辺国に圧力をかけましたが、
トルコに対しての圧力はかなりのものがありました
しかし、アメリカもそれを見過ごすわけがありません。
軍事援助や弾道ミサイルの配備なども行い、
イスタンブールを挟んで南に米艦隊、北に露艦隊で睨み合いなんてこともありました

結局、モントルー条約によって軍艦の通貨が制限され、
大型の戦艦や航空母艦の通貨も制限されるのですが、それは次回解説しましょう



0.1Monaでもいいので寄付していただけると、記事を書き続ける原動力になります
寄付:MSmPH9ptv8Vp8N3JMjFCgQ25ucXv3xKTAo

0 件のコメント:

コメントを投稿