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左にあるラベル毎に続き物の話をまとめています

2014年4月29日火曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエトと冷戦の終わり「茶番をしたら壁が壊れた」

ある意味見えない敵、予算との戦い


1980年代、
長く続いた冷戦は兵器開発競争に伴う軍事予算、国家財政との戦いでもありました。

兵器における電子機器の重要性が増していくと、
電子機器の開発能力が開発費と性能を左右するようになりました。

経済力が次第に増大する米国をはじめとする西側諸国は、
民生技術を背景に高い電子機器の開発能力を持ち、
民生技術の応用も数多く行われたため開発費も抑えられました。

それに対し、経済力の伸びが悪いソヴィエトを中心とする東側諸国は、
共産主義国家であるが故に民生技術も無く、
特に電子機器の開発能力に関しては貧弱と言わざるを得ず、
多額の開発費を投じても米国に一段劣る物しか開発できない有り様でした
(例 1970年代から1990年代にかけての戦闘機のレーダーやミサイルシーカー
その代わり機動性はソ連・ロシア製の方が高く、格闘戦においては有利)

その上、ソ連の想定以上に長引き泥沼化してしまったアフガニスタン侵攻の戦費が嵩み、
更に財政を圧迫していきました


ペレストロイカ、グラスノスチと汎ヨーロッパ・ピクニック


1985年、共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは
ソ連型社会主義を部分的に民主化、自由化する「ペレストロイカ」を実行。

それまで全て秘密とされた中央委員会(日本で言う国会に相当)の会議をテレビで中継する等
共産党内部の情報公開が進められた。

1986年にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退を表明。


更に、ソ連が東側諸国に対する政治圧力を放棄したことを表明し
それまでソ連を恐れソ連に従ってきた東側諸国はソ連の支配から脱し、
ポーランドでは1989年が民主化。複数政党による自由選挙が開かれ、
複数政党制に移行しポーランドの一党独裁制は終了した

また、ハンガリーも民主化を進め、
オーストリアとの国境封鎖を解除。
西側であるオーストリアとの間を行き来できるようになった。

一方、東ドイツは大戦から長きにわたって分断国家で、
社会主義、共産主義、監視社会に嫌気が差した数多くの人達が西ドイツへの脱出を試みてきた。
特に「ベルリンの壁」を越えようとした人々の話は有名である

当時、東ドイツにおいて旅行は許可制で、許可が出れば西側に行く事も出来たが、
実際の所許可が出るわけもなかった。

しかし、東側諸国に対する旅行は許可が出やすいため、
未だ「東側」と認識されているハンガリーに旅行に行くと許可をもらい、
そのまま不法出国してしまえば西ドイツに行けるのではないかと考えた。

実際はハンガリー人しか出国できなかったが。



その頃、東ドイツは分断国家であるがゆえ、国家の存在意義が「社会主義」以外無い訳で、
その社会主義さえ無くなってしまえば国家の存在自体が危うい状態だった

周辺国家がソ連のお墨付きの元、改革を進め次々と民主化していく中で
東ドイツはソ連の書籍すら輸入を禁止するような逆行状態であった

当然、東ドイツの首脳陣はこの国境開放に激怒したそうだが、
ソ連のお墨付きが出ているため目立った抗議は出来なかった。


しかし、ハンガリーで民主化を求める勢力や
政府の民主化改革派は多少強引な手段を使ってでも東ドイツ市民を越境させてしまおうと考えた。

表向き「集会兼お祭り」として企画された「ヨーロッパの将来を考える会」は
その実、西ドイツやオーストリアの外交官、ハンガリーの国境警備隊、入国管理局まで巻き込んだ盛大かつ大きな政治的メッセージを持った茶番であった。



「ヨーロッパの将来を考える会」は1989年8月19日に実行された。

その日、国境警備隊は「なぜか」検問所付近には居なかったし、
なぜか」検問所の係員が何時もより少なかった。

オーストリア、ハンガリー国境の検問所が破壊され、東ドイツ市民を満載したバスが次々に到着し、
国境のゲートを東ドイツ市民が走り抜ける中、

検問所の係員は不法出国が行われているゲートに背を向け、
オーストリア人のパスポートを一人10分以上かけて入念にチェックしていた。

ゲートを走り抜けた東ドイツ市民は、「なぜか」そこに居合わせた西ドイツの外交官から西ドイツのパスポートを受け取り、
なぜか」オーストリア側にあったバスに乗って西ドイツに向かった。

ゲートを走り抜ける東ドイツ市民
この事件は、「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれている。
どうも、彼らはピクニックをしていたら「なぜか」「間違えて」国境を超えたらしい。

全く持って盛大な茶番である

ソ連は当然この事件に関して見て見ぬふりをして、全く干渉しなかった

この様子は西ドイツ(西ベルリン)でテレビ放送されたため、一部の東ドイツ市民は当然見ることが出来た。
当然西ドイツの放送を受信することは禁止されていたが、
監視を逃れてほぼ全国民が見ていた。

東ドイツ政府は当然ハンガリーに激しく抗議し、
東ドイツ市民を強制送還するよう求めたが、ハンガリーは応じるわけもなく
正に後の祭りだった

この後もハンガリーからオーストリアへの東ドイツ市民の出国は止まらなかった。


10月になると東ドイツ政府はハンガリーへ行く際に必ず通らなくてはならないチェコスロバキアとの国境を封鎖。

数万人規模のデモが発生し、東ドイツ市民の不満は体制批判へと変わっていく。


周辺国が次々と民主化、またはその動きがある中、
社会主義を続けなければ国が消滅する東ドイツ政府の最後の頼みの綱は
ソ連の支持を得ることだったが、
ゴルバチョフが東ドイツを訪れた際、演説の内容や態度から東ドイツ政府を支持していないのは明らかであった。

この頃のソ連は社会主義を捨てるように諸外国に圧力をかけていたと言っても過言ではない状態になっていた



失言と勘違いで壁が無くなった


1989年11月
デモが拡大を続け、東ベルリンで100万人規模のデモが発生。

東ベルリンでのデモ(1989年11月4日)


なんとかこれを抑えるために新たな旅行法案を作るものの、
人民議会は旅行に国の許可を要するこの法案を否決。

デモの拡大、ストライキの広範囲発生。
党の中央委員会は罵声大会と化し、議会として成立していない有り様だった

9日、新たな旅行法案は党の権限によって政府政令として審議するため発表された。
但しこれが党の外部に発表されるのは翌日の10日の予定だった


その日、党の記者会見が行われたが、
会見を行ったのは中央委員会に参加せず旅行法案に関して知らない党員だった。
会見の前に資料として旅行法案の書類を渡されたが、中身をよく把握していなかったらしい。

国民の大量出国問題に関して、「我々はもう少々手を打った。
ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」

「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、全ての国境通過点から出国が認められる」と発言。
その後、発効日を尋ねられた際、「直ちに、遅滞なく」と発言。

実際にベルリンの壁を超えるには許可証が必要だったが、それに関して記者会見では何も言われなかった。

この会見をテレビで見ていた市民は半信半疑にベルリンの壁に集まった。

国境警備隊は10日に内容を知らされる予定であったため、
会見を見ていない警備隊と市民の間でいざこざが起きた。

ゲートに詰めかける市民


会見の3時間後には6つの検問所にそれぞれ数万人にもなる市民が詰めかけ、
武力鎮圧も出来ない状態になり最後には警備隊の独断でゲートを開放。
国境警備隊に撤収命令が下された。

日付が変わると市民がハンマーを持ち出してきて壁を叩き始めた。
更に数日後には東ドイツ政府によって壁の撤去が始まる。



冷戦の象徴は失言と勘違いと茶番と、わずか数時間で崩壊したのであった。






またウクライナとは関係ない内容なのですが、
ソビエト崩壊を語る時には必要な話なので…
次回はソ連崩壊前後のウクライナの話に・・・なるのかなあ?
東欧革命周りはまだ説明が必要かも。

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2014年4月27日日曜日

ロシアとウクライナ:戦前戦後ソビエト時代

大粛清はウクライナとあまり関係がないので
大戦から崩壊前までのソ連を簡単に確認していきましょう。




1930年代後半に行われたスターリンによる大粛清は数百万人規模の犠牲者を出し、
赤軍の将校や共産党員すら巻き込んだ結果、
国力と軍事力の低下を招いた。

そして、軍事力と国力が低下したままドイツはソ連に対して侵攻を開始、
独ソ戦が始まる。

ソ連の工業生産力の殆どはモスクワより西側、
つまりドイツ、ポーランド側に偏っており、
特に旧首都サンクトペテルイブルグ改めレニングラード近辺に集中しており、
ドイツもソ連の工業力を削ぐべくレニングラードを包囲するよう進軍した

1941年、レニングラードは包囲された結果、補給が途絶。
都市の食料事情は一気に悪化していき、
冬になると燃料不足も手伝って飢餓による大量死が発生し始める。

当然、市民は死体を食らうに至ったが、その有り様は10年前のウクライナより更に悲惨なものだった

「人肉を売る店」すら有り、子供の人肉は美味いとされ、市内で子供の誘拐と殺人が横行。
結果レニングラードは100万人近い市民が死亡したとされる

冬に近隣の湖が凍結して通行可能になったのを利用して市民を市外へ運び、

生産力の保護を図るため、
レニングラードからモスクワより更に東、ウラル山脈より東に工場を疎開させた。



初期は押され気味だったものの縦深防御の成功によるドイツ軍補給線の疲弊と、
「必要ならば人命を消費する」というソ連らしい戦い方の結果、
ドイツは押し戻され始める。

第一次五カ年計画時の急速な工業化無しには押し戻すことも困難だったと言われており、
『ホロドモール』が無駄死、虐殺であるという主張に対する反論でたまに使われる。




因みに、スターリンは独ソ戦時に「一歩も下がるな!(Not one step Back!)」という命令を出している

これは、督戦隊を各部隊に配置し、交代してくる味方の「臆病者」を射殺する命令で、
徴兵したての士気が低い兵士を後退させないための命令だった。

よく言われる「銃は二人に一丁」というのは事実だったか怪しいのだが、
「無断で後退した臆病者には督戦隊が『懲罰』を与える」というのは事実であった

足りないものは人命で補うというのはこの辺りにも現れている。



ソビエトはアメリカからの数多くの物資の供給と
(色んな物を犠牲にして得た)強力な工業生産力に支えられてドイツに対して物量戦を展開。
ベルリンを占領し、ソ連が侵攻する前に日本も降伏したため、二次大戦は終了した。

独ソ戦の死者は2500万人、ウクライナでは1000万人近くが死亡したとされ、
これは当時のウクライナ人口の2割に当たる



大戦が終わると、核戦力を背景にした資本主義と共産主義の戦い、冷戦が始まる。
ドイツはソ連占領地域とアメリカ、フランス、イギリス占領地域で分割され、
東西ドイツとして冷戦が終わるまで分断国家で在り続けた

弾道ミサイル技術の展示会として使われた宇宙開発競争、
核戦力の配備競争、核開発競争、
兵器の開発競争など、自陣営が有利に立つために競争を繰り広げた。

西側諸国は二次大戦で見せつけられたソ連の『必要ならば人命を消費する』という物量戦を特に警戒し、
それらの侵攻を防ぐために戦場で使える核兵器、戦術核兵器の開発を急いだ
(その結果いくつかの珍兵器が生まれてしまったが)


ソ連はアメリカを始めとする西側諸国に対して、
軍事技術に関しては同水準のものを開発し続けた

しかし、ソ連の国力は大戦前から軍事生産や軍事研究に偏っており、
軍事技術は西側諸国に劣らないものであっても、
民生技術においては西側には遠く及ばず、長年国民の生活は改善しなかった。

大戦から時間が経つに連れて西側との経済力の差は大きく開いていった。

また、ソ連の食料生産は集団農業の影響で相も変わらず生産量が上がっておらず、
自給率が100%を下回っていたため、

冷戦で最大の対立国であったアメリカから食料を輸入せざるを得ず、
西側に輸出できるものが天然資源以外無いソ連は対外債務が日に日に増えていった。
にも関わらず、東側諸国に対する経済支援は外交上継続せざるを得ず、

冷戦におけるソ連の敗北は次第に確実なものとなる


1979年、アフガニスタンの共産主義政権に対する武力抵抗運動が勃発、
アフガニスタン政府軍だけでは抑えられなくなてしまったため、
政権はソ連に軍事貫入を要請。

ソ連はアフガニスタンに侵攻を開始した。
今現在まで40年近く続くアフガン紛争の始まりである。

抵抗運動は「ムジャヒディーン」と呼ばれた。
このムジャヒディーンの中には後に国際テロ組織「アルカーイダ」の指導者となる
ウサーマ・ビン=ラーディンも含まれていた。

平原と丘陵地帯(というかヨーロッパ)における正規軍相手の電撃戦と総力戦を想定していたソ連軍は
アフガニスタンの山岳戦に苦戦。

更に、アメリカやパキスタンの支援によって
ムジャーヒディーンは軍事訓練を受け、数多くの兵器や武器を受け取り、
山岳戦に悩むソ連に対して優位に戦った。

戦闘ヘリによる掃討作戦が実施された際に対空ミサイル「スティンガー」を
アメリカがムジャヒディーンに供給したのは有名な話である

1988年まで続くアフガニスタン侵攻による多額の戦費は、ただでさえ軍事費に偏っていたソ連の財政を更に苦しい物にして、ソ連を解体する原因ともなった



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2014年4月23日水曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエト・ロシアによる間接的虐殺「ホロドモール」

「ホロドモール」
割と知られてないかも知れませんが
ウクライナとロシアの関係を語る上で絶対に切り離せないものです

ここまでの記事を読んでいなくても分かるように書いています





1922年、ウクライナはソヴィエト連邦の構成国となった。

帝政ロシア時代の農奴制等の弊害もあって、
工業化遅れるソヴィエト・ロシアにとって
痩せたロシアの土地と比較して土壌の豊かなウクライナの穀倉地帯から収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。

結局、外貨のためにやってることは帝政ロシア時代と変わらなかった。


しかし、ロシア革命後に発生した資本家、地主等のロシア内戦とそれに伴って実行された
「戦時共産主義政策」は農民からの食料の強制徴収を行い、
戦争遂行のため軍への優先した食料と物資の再分配によって
都市では食料が不足。「買い出し」と「闇市」が必要になるという何処かで聞いたような状態となった

更に、当時の労働者層は農村から出てきた者も多いこともあって
農村に帰る事パターンが多く都市からの労働者が流出。
工業生産は革命前の20%まで落ち込んでいた。

これでは農作物以外の輸出など出来るわけもない。



戦時経済によって疲弊しきったソヴィエト経済を改善するため、
今度は「ネップ」と呼ばれる部分的な資本主義の政策が取られたが、

資本主義に基づく新たな資本家と自分の土地を所有する富農「クラーク」などが生まれ
社会主義の前提を崩れさせる「貧富の差」が発生した。




レーニンの死後、ヨシフ・スターリンがソヴィエト連邦の最高指導者となると、
社会主義体制に基づいた計画経済案「第一次五カ年計画」が策定された。

五カ年計画には「農業の集団化」という内容が含まれており、
これはネップによって復活した農産物の投機的売買を撲滅し、
土地、農機具、家畜等を集団で共有することで農民が勝手に市場に農作物を売却することを防止し
政府が独占的に農作物を買い上げることによって
国内で生産される食料を政府が監視できる状態にすることを目的にしたもので、

都市に対する食料供給と価格を安定させ、食料の流通における非効率的な要素を排除できるとされた。

…とされるが、実際のところは
極端な工業化政策によって都市に集まった労働者に安価な食料を提供するために
政府が穀物の市場価格を安く抑えたため
農民が出し惜しみをした結果、政府は都市に対して食料を供給することが出来なかったため、
半強制的に穀物を徴収するために農業の集団化を進めたのだった。



当然、これらの政策はウクライナでも実施された。
土地が豊かな分、ウクライナでは自分の土地を保有する農民も多かったため
集団化はあまり進まなかったが、
より多くの食料を管理したいソヴィエト政府は強制的に農業の集団化を進めた

当然、反発する者は多かったが
農業の集団化に反対する者に対してソヴィエト政府は彼らをネップ期に富を手にした「富農」であるとした。
この反対者達に関してスターリンは後年こう語っている
「(抵抗した農民の数は)ざっと1000万人くらいでした。抵抗する農民どもには極北の土地をくれてやりました」

実際の反対者達の数は定かでないが、彼らが文字通りシベリアに送りにされたのは事実である
因みに、そのうち処刑されたのは資料に残っているだけで2万人ほどになる。


しかし、「富農」だと言われた農民は勤勉な農民であることが多く、
非常に効率的で効果的な農業と長時間の過酷な労働の末に多くの農作物を生産したために
それ以外の農民より裕福な生活を送っていた訳だが、

集団化制作によって富農が弾圧されたため農業に熱心に取り組む人間がいなくなり、
政府が生産する作物を指定し、独占的に不当な低価格で買い上げるため
農民の労働意欲は低下しソ連全体の農作物生産量そのものが下がるという皮肉な結果になった。


以上の理由からウクライナで食料生産量が低下したが、これに関してスターリンは
ウクライナの農民が食料を隠しており、集団農場で食料を隠すことを『窃盗罪』とし、
その刑罰を厳しくすることでこれを改善できる
と、考えたのである


そのため、集団農場に所属する農民は政府や農場に秘密でパンの取引や落ち穂拾い、穂を狩ると
『人民の財産を収奪した』とされ、10年間の懲役刑…もとい強制収容所送りとなった
1933年春には家畜用の飼料ですら『悪用』すると強制収容所に送られると言われた。

また、農作物の徴収を強制的に行い、
生産量の何割、というものから最初に決められた一定量を徴収する形に変化したが、
都市の労働者に食料を供給するため、不作でない年でも生きて行くのに最低限の量だけが農民の手元に残るような量を徴収された。

1932年末、ウクライナで国内パスポート制が導入され、農民の移動の自由は制限された。
農民は村や集団農場に縛り付けられ、さながら農奴のように移動が出来なくなった。

また、農作物を確実に回収するため監視のため都市の労働者や共産党メンバーから構成される「オルグ団」が作られ、
農村や集団農場を巡回し監視した。

学校教育等を利用して子供にも監視させ、肉親を告発した者には
食料や衣服やメダルを与えた。





(この親を告発したという少女は親戚に殺されたという出所不明の話を見たことがある)



共産党メンバーは家々を周り、食卓からパンを、鍋から粥まで奪っていったと言われている


(画像を多めに用意しようと思ったのですが、キツい画像が多いので省略します)
(探せばかなりの枚数があります)
穀物類の強制徴収
1932年は欧州の広範囲で凶作であったが、他の国では特に問題にならない程度のものだった。
他国では目立った死者なんて出ていない。

しかし、ソヴィエトは違った。
食料を没収された農民はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫やドングリまで食べた。
それでも食料が足りない農民たちは病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べた結果
多くの人間が病死し、その死体を食って体調を崩し病死するという有り様だった。
果てには(生きている)赤ん坊を食べたことさえあったという。

通りには死体が当たり前のように転がり、所々に山積みされ腐敗臭が漂っていた。
死体処理のための労働者が都市から送られてきたものの、一向に死体は減らなかった


因みにこの頃のスターリンは
料理が気に入らないという理由で皿ごと床にぶちまけたり、
味が気に入らないからと食わずに捨てさせて作り直しを要求したり
数多くの作家を招待して高級食材を振る舞う運河の船旅を行ったりなどしていた。
わかりやすい独裁者である。



ソ連政府は死体の山が発生しても飢餓の事実を認めなかった。
輸出用の穀物を放出すれば農民の死は防げるはずで、他国なら普通そうする。

しかし、国外に対して世界恐慌の影響を受けない5カ年計画は成功していると宣伝していたため、
ソ連としては五カ年計画が原因になった飢餓の存在を認めるわけには行かなかったのだ


結果として、500万人以上の農民が餓死し、
ウクライナの農業人口の二割が死亡した。

彼らがなんの為に死んだかと言えば、ソ連の工業化のためである
都市の労働者を養えなければ工業化は進まないが、
農民にも労働者にも十分な食料が与えられるような工業化では西欧諸国には追いつけない。
そう考えられた結果、「人命を消費して」急速な工業化を行ったのである。


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2014年4月21日月曜日

ロシアとウクライナ:ボルシェヴィキのソヴィエト/ウクライナの復活と敗北

1917年2月。
帝政ロシアは倒された。
ウクライナは独立を勝ち取るチャンスを得た。

ウクライナは自治組織を結成。ロシア臨時政府に対して代表団を送り「ロシア連邦」内部の共和国として自治権の保証を求めた。
交渉の結果、臨時政府はウクライナの自治を認めた。
つまり、ロシアから完全に独立するのではなく、現在ロシア連邦を構成している共和国のように、
高度な自治権がある地域としての立場を求めた。

では、ウクライナ以外の地域はどうだったのか。

例えば、フィンランドは革命までロシア帝国の属国だったが、
それまでのロシア語の強制や文化的圧力、所謂ロシア化等に対する不満もあって
「完全独立」路線になる

ポーランドも同様の理由で完全独立路線へ。

そして10月
ロシアではボルシェヴィキが武装蜂起によって政権と権力を獲得したが
ウクライナはボルシェヴィキ率いるソヴィエト政府をロシア帝国の後継国家とは認めず、
「ウクライナはロシア共和国とともにロシア連邦を構成する自治共和国である」という宣言を出す。
(臨時政府≒ロシア共和国)



この宣言によって「ウクライナ人民共和国」が誕生する
尚、交渉相手となる臨時政府が既に存在しないため実質的な独立宣言であった。

ウクライナ人民共和国の国旗
現在のウクライナ国旗とは色の配置が逆である


イギリスとフランスはこの宣言を受けてウクライナの独立を認め、国家として承認し
代表団を首都キエフに送った。

その他の一次大戦協商国側の国家も次々に独立を承認した。
これは、ウクライナが単独で対ドイツとの講和を行って戦争から離脱するのを回避する狙いがあったと思われる

当然、ソヴィエト政府はウクライナの独立を認めるはずがなく、
ウクライナ人民共和国での赤軍の活動を無制限に認める事を引き換えに国家として承認するという「最後通牒」を出した
(赤軍:ソヴィエト及びボリシェヴィキを支持するロシア軍の事 後のソヴィエト国軍)

他国の軍事力を国内に制限なく置くということは、実質属国となるという事であり
「国家として認める」といった所でその後軍やら何やらを利用してソヴィエト従わせるのは目に見えていた。
ウクライナはこの要求を拒否したため、
ソヴィエト政府はウクライナへの軍事侵攻を行うことを決定。

年を跨いで1918年1月

ソヴィエト赤軍はウクライナ国内への侵攻を開始。
物量、練度、作戦、戦術あらゆる面において劣るウクライナ側は敗北と撤退を続け、
僅か9日で赤軍は国境近くから首都キエフの面するドニエプル川の反対側まで近づいていた

1月27日には首都キエフが赤軍に占領され、ウクライナ政府はキエフから脱出。

同日、ウクライナ人民共和国とドイツ・オストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国
一次大戦における「同盟国」側との単独講和条約が締結され、

ウクライナはドイツと食料補給などに協力する代償として赤軍との戦いに関する協力を取り付けた。
ドイツ軍の協力の下、再編成されたウクライナ・ドイツ軍は3月にキエフを奪還したが、
食料補給に関してトラブルが発生した。

ウクライナ政府による抗議の末、ドイツ軍はウクライナ政府を排除することに決定。

4月末にはウクライナ政府によって追放されていた帝政ロシア時代の地主や貴族がドイツ軍の支援を受けてクーデターを発生させた。

この後のウクライナ政府はドイツ軍の影響を強く受けたものに変わるが、

今度は白衛軍(ボルシェヴィキ以外の政党を支持するロシア軍やコサック軍の集まり)
やウクライナ民族主義派、ウクライナ武装革命主義派、
ボリシェヴィキ・ソヴィエト赤軍等
多数の武装集団が互いに争い潰し合う内戦に入った。

1918年末には「ウクライナ人民共和国」のクーデター政府はキエフを追い出されることとなったが、
亡命ウクライナ政府は長年「ウクライナ民族永遠の敵」とされたポーランドと手を組んで
ウクライナを取り返そうとした。

一方でこの頃にはウクライナにはボルシェヴィキ・ソヴィエトを支持する組織も居た。
ウクライナ・ソヴィエト共和国」と名乗るこの国家は、現在親ロシア派が活動を行っているドネツク州も含まれるもので、その地域に多数住むロシア人の国家としての性格を持ち合わせていた。

この結果、ポーランド・ソヴィエト戦争は
「ウクライナ・ポーランド連合」と「ロシア、ウクライナ・ソヴィエト連合」の戦いとなった

1919年から1920年に掛けて戦争は行われ、ポーランドはワルシャワを包囲されるものの機動作戦によってソヴィエト連合軍を追い返し、
最終的には「ポーランドとソヴィエトがウクライナを分割」という結果に終わり、
ポーランドに裏切られた亡命ウクライナ政府は更にフランスに逃げるも、ウクライナに戻ることは二度となかった。

結果として、ウクライナは「キエフ・ルーシ」時代以来の完全独立に失敗し、
ウクライナはソヴィエト・ロシアの影響下に置かれる
「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」となった。

因みに、ポーランドは先に書いた内容から分かる通り独立を果たし、
フィンランドは赤軍を全て追い出して独立を手にしたのであった。


かくして長い戦乱期を終えてウクライナは(他民族の支配力が強い状態ではあるが)
他の一次大戦参戦国よりも人足遅い平和を手にした。


しかし、僅か10年後、

長年の戦争などまだマシだったと思えるほど
過酷な生活を、ウクライナの人民は味わうことになる






次回、「ホロドモール」



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2014年4月19日土曜日

ロシアとウクライナ:ここまでの流れ簡易まとめ。10分で読めるはず

流石に普通の人が読めない状態になってしまっているので、
色んな人に読んで欲しい「ホロドモール」辺りまでの流れを簡単にまとめていきます




10世紀頃、ウクライナ人の民族的先祖に当たるキエフ・ルーシ人は
「ルーシ」という国家を持っていた(ロシア人も同祖なので注意)

「ルーシ」はキエフ大公国と周辺の小国に分裂するが、
これは諸侯の領地を「国」と呼んだだけで、完全に別の国家となったわけではなかった
因みにこの頃のクリミア半島はキエフ大公国とビザンチン帝国で分割されていた

モンゴル帝国が侵入。「ルーシ」を完全に飲み込んだ。
帝国は分割され、今のウクライナの位置には「ジョチ・ウルス」が残った。
クリミアのキエフ大公国の領地はジョチ・ウルスになる

モスクワ大公国がジョチ・ウルスの力を利用して力を強める
ジョチ・ウルス滅亡 領地はいくつかの国に分割され、
最終的にポーランドとモスクワ大公国に分割される
クリミアには「クリミア・ハン国」が誕生 
かつてクリミアでビザンチンが持っていた地域はオスマン帝国になる

コサックが誕生
西のコサックはポーランドに、東のコサックはモスクワ大公国に有力な軍事力として活用され、
その地位と自治権を認められた。
西のコサックはポーランドに対して反乱を起こし、「ヘーチマン国家」として独立するも
数十年で結局ポーランドとモスクワ大公国に踏み潰され分割される
モスクワ大公国はロシア帝国になる
ロシアの農奴制が年を追う毎に悪化。
極端な貴族優遇と農民冷遇が続く。
「土地に拘束された農民」という立場は何処へやら、
土地と関係なく資産として売却が可能になるようになる
19世紀も中頃、農奴制は廃止されたが、
土地の再分配等が原因で農民の生活は寧ろ苦しくなる
20世紀に入る。
ロシアも次第に工業化し、都市労働者が増えるも生活は農民同様厳しい。
日露戦争勃発。ロシアは敗北を続け、日本海海戦で敗北は決定的なものになる
平和と生活改善と代議制を求めて首都サンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
軍がデモ隊に対し発砲。デモとストライキはさらに拡大

皇帝が国会を開くことを宣言すると事態は収束するが、
国会の権限は異様に低いものであったし、皇帝の権限で解散できるものであった
12年後 一次大戦による戦時経済で国民の生活は困窮、その不満が原因で
再びサンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
今度は軍の兵士も反乱に参加。最早皇帝が止められる状況ではなくなり
皇帝は退位。
国会の議長が臨時委員会を組織、臨時政府を立てる(ロシア革命)
臨時政府の他に「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が組織され、
労働者と兵士は「ソヴィエト」を支持した。
「ソヴィエト」を構成する政党の一つ、「ボルシェヴィキ」が武装蜂起を実施
権力、政権を確保する
ボルシェヴィキ、一次大戦の全交戦国に「平和に関する布告」を布告
無賠償、無併合での講和を提案するも、ドイツは無視。
ドイツに負け続きのロシアは不利な条件での講和条約に調印せざるを得なかったが、
国民の要求であった「平和」を達成し、一次大戦から離脱した
日本、アメリカ、イタリア、イギリス、フランス等の一次大戦「協商国」側が
ロシア革命政権を倒す事も想定した干渉戦争を開始
(シベリア出兵)
帝政ロシアから独立し、誕生した
ポーランド、フィンランド、ウクライナ等の国家はボルシェヴィキに敵対。
「反革命軍」たる旧帝国派や共和主義者等が「白軍」としてボルシェヴィキと敵対
そのままロシア内戦となる
1920年頃 内戦はほぼボルシェヴィキの勝利。
ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦となる



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ロシアとウクライナ:ソヴィエトの生まれ 革命とボリシェヴィキ

ロシア革命は非常に長い割に今のウクライナとあまり関係がないので
飛ばし気味に行こうと思います

一応先に書いておくと、分かりにくいかもしれませんが
「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」は政党です。




ロシアでは農奴制が(名目上)廃止されたものの、
土地の購入代金のための負債の返済と、農奴が耕していた全ての土地が売却対象になったわけではなく、
地主の所有する土地が未だに多いこともあって
全ての農民が土地持ちの農民となることは出来ず、寧ろ全農民小作状態であった
(小作:他人の土地を借りて農業を行い、作物の一部を土地代として徴収される)

現代の日本的な言葉で訳すならば
「元農奴の農民は全員社畜(しかも超絶ブラック企業)状態」とでも言いましょうか


しかも、農奴制が廃止されただけで「貴族」と「それ以外」という明確な階級は未だ存在していて、
貴族にとってはそれまでの土地が金に変わっただけでも、
農民にとっては土地の購入代のために農奴時代より更に生活が苦しくなり、
政治への不満はむしろ高まっていった

また、農奴解放後のロシアは工業化の進展によって労働者が年に集まった時期でもあった
この労働者の変化も、革命の原因の一つとされる

更に、農奴解放問題から続く社会への不満は、
「ナロードニキ」と呼ばれる社会主義革命を唱える活動家を産んだが、

革命を恐れた皇帝はオフラーンカ(政治秘密警察)を用いて弾圧させた。






日露戦争とロシア第一革命(1905)
南下政策を続けるロシアは満州と、朝鮮に興味を持った。
当時朝鮮は積極的な親露政策を取っており、
幾つもの利権をロシアに売り渡していた。
(但し、朝鮮国内にもかなりの規模で日本に協力していた団体もあった)


一方の日本としては、ロシアの脅威を最大限遠ざけるという安全保障上の理由から、
朝鮮を勢力下に置き、可能であれば満州も確保したいと考えていた。

当時、日本とロシアの国力差は明らかに差が開いており、
(国土の広さという差もあるが)
歩兵66万対13万、砲兵16万対1万5千という圧倒的な差があり、
当時のロシア海軍は世界三位。

方や黄色人種で、国際社会に復帰してから僅か50年程の辺境国家。
日本国外の誰もがロシアが勝つと思っていた…

近いうちに開通するシベリア鉄道が全通すると
満州、朝鮮におけるロシア軍の作戦能力と投入可能戦力が大幅に伸びる
(補給能力と輸送能力が上がると数も戦闘能力も向上するため)

更に不利な状況が続くと考えた日本側は開戦を決断。
日露戦争が始まる。

朝鮮に上陸した日本軍は最初の三ヶ月、負け無しで快進撃を続けるも旅順で頭を悩ませる事になるがそれはまた別の話。

一方のロシア軍は負け続きに焦ったのと、ウラジオストクと旅順の海軍だけでは、
全戦力を投入できる日本海軍を排除することは出来ないと判断。

バルト海艦隊から戦力を抽出して派遣艦隊を編成、日本海に差し向けるのですが、
途中で英国の漁船を砲撃、撃沈してしまい英国は大激怒。
日英同盟のこともあって英国はスエズ運河の通行を拒否し、
諸外国に対してロシアに協力しないよう圧力をかけました

7ヶ月かけてようやく日本海に入った派遣艦隊。
日本の連合艦隊は戦艦4を中心に16隻に対し、
ロシアの派遣艦隊は戦艦8を中心とする全29隻。(艦隊決戦を行った戦力のみ)

この数の差では少なくとも決定的勝利は望めない。そう考えるのが普通…なのですが
蓋を開けてみれば日本側には損失無し。
方やロシア海軍は「全ての砲撃戦闘艦艇が戦闘不能又は逃亡、降伏」という酷い有り様。
これによって世界の海軍トップ3国家が「日本」「アメリカ」「イギリス」の3つに確定。

ロシア海軍は世界三位から世界6位まで降ろされたのでした

当然、これにロシア国内で反応がないわけがなく……

日本との戦争が劣勢になるにつれ戦費を浪費し、目的も不明瞭な戦争に反対する声が大きくなっていった


1905年1月、首都サンクトペテルブルクで10万人以上の労働者によるストライキとデモ行進が行われた。
基本的人権の確立や憲法の制定、日露戦争の終結等を要求するデモは皇帝に対する直訴でもあった

政府は軍を動員してデモ隊を止めるつもりだったが、デモ参加者6万人という人数によって成功せず、
軍は各地で非武装のデモ隊に対して発砲。
これにより数千人規模で死者が発生した。
これが「血の日曜日事件」である

軍の発砲によってストライキとデモは更に拡大。その規模は首都のみに留まらず、
国外のポーランドやフィンランド、ウラルより東、所謂シベリアでも行われた

皇帝は広範囲かつ大規模なストライキに発展してことを受けて
ドゥーマ(国会)の創設に応じたが、
ドゥーマの権限が小さく、実質皇帝がコントロールできるということが明らかになると
騒乱は更に激化

結局、政党結成の許可、普通選挙じの投票権対象者の拡大等を皇帝が宣言することで騒ぎは収まった。

しかしながら、皇帝はドゥーマを解散させる権限を持ち、
軍事、行政、外交を完全に支配し、立法関連のみドゥーマで審議させた。
(立法ですら皇帝が都合が悪くなると解散させていたが)

この時、最初のドゥーマの議員選挙に、後のソヴィエト国家を立てる「ボリシェヴィキ」の姿はなかった。
この頃の(政党としての)ボリシェヴィキは少数派だった。
その名前(ボリシェヴィキ、ロシア語で「少数派」)

結局、皇帝と貴族が国家権力の大半を支配する状況に変わりはなかったのであるが、
革命を狙う集団はこれによって一度は活動を低下させていった


二月革命(1917年)

1914年、サラエボ事件から第一次世界大戦が始まり、ロシアも参戦した。
「この戦争はそう長く続くはずがない」
誰もがそう思っていた。
というよりも、それまでの戦争は長く続けられることはなかった。
それまでの常識なら、一年以上戦争が続くことはあまりない。

補給や戦費の限界、防衛のための縦深の深さ等が意図せずとも戦争を長引かせなかった。
しかし、一次大戦はそれまでの戦争と違った。

世界初の先進国による国家総力戦。
なんとなく存在したルールや礼儀などが消え去った世界初の大規模戦争だった。

兵士の主体が傭兵と職業軍人で構成された時代は完全に終わり、
成年男性の国民全てが予備兵力として計上され、徴兵対象となる
国家の工業力、科学力、技術力、生産力、経済力。文字通り国力の全て。
国力の全てを戦争のために動かすことが出来た世界初の戦いだった

当然、ロシアも例外ではない。
国家経済は総力戦体制に移行し、国の全てを戦争のために動かした。
戦時経済は国民の生活を困窮させ、そのうえドイツに負け続きだったため

国民の不満は全て政府に向かっていた。



1917年2月23日
食料配給が日に日に悪化する中、ペトログラード(サンクトペテルブルグから改称)で食糧配給の改善を要求するデモが発生します。
このデモは特に暴動を伴うこともないデモでした

しかし、市内の労働者の参加が次第に増えていった。
その上、デモを鎮圧するはずの軍隊が反乱を始めた

兵士も国民、当然ながら農民や労働者階級の出身が殆どであった訳で、
負け続きで何のためにしているか分からない戦争に行くのは嫌だったことでしょう

下士官を射殺して反乱を起こす反乱兵は数万人にも達し、
首都周辺で反乱を起こしていない部隊は居ないような有り様でした


皇帝ニコライ2世は退位し、
ドゥーマの議長は議会を解散させて臨時政府を設置して政権を掌握した。

一方で各政党は政党と労働者や兵士による評議会を設置した。
評議会はロシア語でСовет ソヴィエト

国家としてのソヴィエトの名前もここから取られています。


ソヴィエトの権力は基本的に根拠が無いものだが、
労働者や(ペトログラード周辺の)兵士はソヴィエトを支持し、臨時政府の話は聞かなかった。

しかし、ペトログラード(サンクトペテルブルグ)ソヴィエトは
「臨時政府の指示はソヴィエトのものに反しない限り従うべきである」という通達をした。
国家権力を臨時政府とソヴィエトで分け合う姿勢を示した

これによって最高権力機関が2つあるという「二重権力状態」になるのであった。
(この時のロシアは明確な共産、社会主義では無かった点に注意)

7月事件

臨時政府は革命によって一次大戦から離脱したわけではなかった。
陸軍省、海軍省は臨時政府に引き継がれ、戦争は継続された。

6月にロシア陸軍は大規模攻勢を行うも、数日で頓挫
寧ろドイツから反攻を受けて前線を後退させる結果となってしまった。

攻勢が行き詰まると兵士たちの間での政府に対する不信感は更に強まり、

7月3日 首都ペトログラードの歩兵連隊は、 ペトログラード・ソヴィエト中央執行委員会が臨時政府に変わり権力を掌握するように求めるための武装デモを行なった。

しかしながら、ソヴィエト中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否。

他の地域から臨時政府とソヴィエトの決定を支持する部隊が到着すると
デモは中止され、失敗に終わった

以前、ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げていたが、
平和的な権力移行が不可能だと判断したボリシェヴィキは武装蜂起による権力奪取を決断した。

8月、臨時政府から軍の最高司令官に任命されたコルニーロフは
指揮下の部隊に対してペトログラードに進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた

軍の各方面の司令官もコルニーロフを支持したが、
ソヴィエトはこれに対向するため「対反革命人民闘争委員会」(つまりはソヴィエトの軍事部門)を設置し
ボリシェヴィキもこれに参加した。

この後ボリシェビキの中央委員会は投票を実施「武装蜂起は最早避けられない」
という宣言を採択した。

ペトログラードに接近した軍の兵士たちはソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、
上官の命令に従わず一発も発砲すること無く解散した。


10月、ペトログラード・ソヴィエトは「対反革命人民闘争委員会」を解体。
「軍事革命委員会」を設置した。
元々ペトログラード防衛のための組織だったが、
ボリシェヴィキは武装蜂起のための組織が必要だったために賛成。

トロツキーは「我々は権力奪取のための司令部を準備していると言われているが、我々はこのことを隠しはしない」
と演説し、武装蜂起の方針を認めた。

軍事革命委員会のメンバーは72人中48人がボルシェヴィキとなった。

また、軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し
臨時政府でなくソヴィエトの指示に従うことを決定した

10月25日(10月革命)
臨時政府は残った部隊を使って最後の反撃を試みた。
ボリシェヴィキの新聞の印刷所を占拠したが

軍事革命委員会はこれを受けて武力行動を開始。
印刷所を取り返し、発電所、郵便局、銀行などを制圧し、
「臨時政府は打倒された 国家権力はソヴィエトに移った」と宣言した。

最後に臨時政府の閣僚が残る冬宮殿が制圧された。
特に抵抗はなかったそうである。

これにより、二重権力体制は完全に終了。
臨時政府は終了したのであった。






く、くぅー・・・つかれましたー(ネタ抜きで)
コレでも終わってません。

資料読むのだけで3日程掛かりました。凄く複雑で何処を抜き出して描けばいいのかもよくわからないのでこんなに長くなったのかも知れません

次はソヴィエト権力の確立、ヴォリシェヴィキ政権、ソヴィエト社会主義国の誕生
そしてロシア内戦です。

まだ先は長いがウクライナの話をするのにこの当たりは飛ばせないという。

コンナモノを面白いと思う人は少ないと思いますし、ここまで読んでくれてるだけで感謝したいのですが
流石に手間かけすぎたかも…


とりあえずあとクリミア周りは最低4本ありますよ

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2014年4月14日月曜日

ロシアとウクライナ:クリミアの正当な統治者は誰?

さて、今ウクライナで一番アツいスポットであるクリミアですが、
所有者?というか統治する国家やらなんやらが結構入れ替わってます


10世紀頃、それまでの遊牧民族に変わりクリミアを支配していたのはキエフ大公国と黒海を挟んだ南にあるビザンチン帝国でクリミアを南北に分割していました

1025年のビザンチン帝国



モンゴルのルーシ侵攻によってキエフ大公国はモンゴル帝国が支配することとなり、
クリミアの支配権はモンゴル帝国から分割されたジョチ・ウルスと、
ビザンチン帝国の領域はジェノヴァとヴェネツィアが持って行きました
ジェノヴァの勢力図。右にクリミア半島と黒海があり、
イタリア半島の付け根にジェノヴァ本国がある
アドリア海に進出できていないのはもちろんヴェネツィアの領域だから。

14世紀末、ロシア(モスクワ大公国)の勢力が伸びるに連れてジョチ・ウルスは衰退
ジョチ・ウルスのうち、クリミアに居た部族も「クリミア・ハン」を興します

「ジョチ・ウルス」と「クリミア・ハン」の主要民族は「クリミア・タタール人」で、21世紀の今もクリミア人口の10%以上を占めます
タタールの人々は元々モンゴルから現在のカザフスタン辺りから移住してきた人達です

15世紀中頃のクリミア
北の白い部分が「クリミア・ハン」 ピンクが「ジェノヴァ」
緑色は「クリミアゴート族」
クリミア・ハン国はクリミアの全て、つまりジェノヴァの交易都市を抑えることは出来ませんでしたが
その後発生したハン国の内紛においてハン国はオスマン帝国に援軍を要請したため

ジェノヴァの交易都市はオスマン帝国によって攻め落とされ、ジェノヴァが持っていた都市と領域は
オスマン帝国の直轄領となり、クリミア・ハン国は援軍を得た代償としてオスマン帝国の属国となりました
しかしながら、限定外交権を持つ程高度な自治権が認められており、自主的な統治を行った

1600年頃の黒海周辺
現在のウクライナはクリミア・ハンとポーランドとモスクワ大公国に分割されている
オスマン帝国による欧州侵攻作戦が始まる1683年、
オスマン帝国はウィーン包囲を長引かせ、神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国、ロシア・ツァーリ国の4カ国による神聖同盟が誕生し、
4カ国でオスマン帝国に対向することとなり、「大トルコ戦争」が勃発。

ロシアは対オスマン戦を優位に進めて1700年、コンスタンティノープル条約
によって400年以上続けられたクリミア・ハン国はロシアへの貢納の取り立てを禁止された。
(この頃は属国クリミアハンのほうが立場は大きかったのに80年後のオスマンときたら…)

ロシアは帝政となり、更に南下政策を加速させていきます
狙うはもちろん黒海沿いの港町、できればクリミア半島のセヴァストポリが欲しい。


その後第一次露土戦争(1768-1774)でオスマン帝国はクリミア・ハン国の宗主国権を停止し、
名目上独立国とする「キュチュク・カイナルジ条約」によってクリミア・ハン国はロシアの影響下に入り、
1783年、オスマンを軍事的な脅威と捉えなくなったロシアは条約を一方的に破棄してクリミア・ハン国を併合。
(ロシア=露西亜 トルコ=土耳古 で露土戦争)

ロシアは獲得したクリミア半島のセヴァストポリに海軍艦隊と母港を置く事を決め、
クリミア半島には海軍関連のロシア人が大勢集まる原因になった

この後、第二次露土戦争(1787-1791)
第三次露土戦争(1806-1812)
第四次露土戦争(1828-1829)の全てにおいて帝政ロシアは勝利した。

クリミア戦争(1853-1856)で(フランスとイギリスと同盟して)ようやくオスマン帝国はロシアに対して勝利するも、
決定的な勝利では無かったためクリミアはロシア領のままになり、黒海の非武装化、ドナウ川河口周辺の領土の割譲という結果に終わった。
その上、その後の条約改正で非武装化はナシになった。

クリミア戦争の図。クリミア半島全土を占領していればオスマンはクリミアを取り返せたかも知れないが
補給線と戦費的に不可能だと思われる



また、クリミア戦争ではその名前の通りクリミアにイギリス・フランス・オスマン軍が上陸して戦場となり、
ロシア黒海艦隊の母港であるセヴァストポリで包囲戦が行われた。

また、この戦争によって一部のクリミア・タタール人はクリミアから逃げてしまい、
多くはオスマン帝国に移住した。

(割とどうでもいいことだが、ロシアとトルコの戦争は1568年から11回程発生しており、
第一次露土戦争は「帝政ロシアとトルコの戦い」として最初のものである)



現在のクリミアの民族と言語とか

この後、クリミア自治ソビエト社会主義共和国の誕生とか
独ソ戦でのドイツのクリミア上陸とかあるんですけど省略しまして、
クリミアとウクライナの民族の分布とかを見て行きましょう

まずはウクライナにおいてウクライナ語を母国語としする人たちの割合の図なんですが
ウクライナ全土の図 色が濃いほどウクライナ語が母語の人が多い
クリミア半島を見てみると真っ白なんですよね、2割下回ってる。

逆に、ロシア語はというと
ウクライナからロシアとの国境沿いにかけてかなり濃くなっています
(ウクライナ語のものと割合と色の関係が違うことに注意)
この図で色が濃い地域と現在独立運動が発生している地域はだいたい一致します


クリミアの人口の58%はロシアに帰属意識を持つロシア人で、
次にウクライナ24%、クリミア・タタール人が12%と続きます

これは、クリミアが帝政ロシアの支配下になってから長年貴重な不凍港として、
黒海艦隊の母港として重要視されてきた結果だと思われます

また、最近色々と問題になっている理由としては、1992年のクリミア州議会による独立宣言が妨害されたこと、
ソビエトの誕生によって東ウクライナの民族問題が90年以上先送りされたことが上げられるでしょう

逆に言えば、二月革命後にソビエトロシアがウクライナに来なけりゃ
二次大戦前には東ウクライナの国境線は何かしらの動きがあったと思われます


まあ、その辺りの詳しい話は次回、「帝政ロシアの終わり ロシア革命から内戦へ」で解説しましょう


(そもそもクリミアがウクライナであると主張できる要素があまり考えられないんですよねえ
タタール人はその前から居たから当然として、
コサックやヘーチマン国家、ルーシ人を由来とするウクライナ民族がクリミアを支配したこと無いし、
そもそも二月革命まで国家なき民族だったし)


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2014年4月13日日曜日

ロシアとウクライナ:帝政ロシア編 ~食料は売り捨てるものだ~

さて、1700年代、ウクライナは帝政ロシアに吸収された訳ですが

この頃のウクライナは自治権すら無いので、特に外国や外交がどうのなどという要素は有りませんが
この頃のウクライナでの生活と、その流れを追っていきましょう




1721年に誕生した帝政ロシアはウクライナを支配し、
ウクライナ人を「小ロシア人」としてロシアの一部として認識し、民族的な分類もそのようになされ、
ウクライナ語を「小ロシア語」と名づけました。

実際同じ民族かといえば、ウクライナはコサックを由来とする
遊牧と略奪と農業と漁業をする人達ですから、かなり違うものと思われます
(この頃の略奪活動はよくあることです)

実際にウクライナ・コサックの自治権が廃止されるのは1783年になります。
その後農奴制が敷かれるのですが、この農奴制というのが酷いものでした。

今回は、この農奴制を中心に書いていくとしましょう


そもそも、農奴制というのは「本来」
古代奴隷制よりも自由な権利を持つ「はず」の農民で、

世界中の何処の国にも居た「土地を持たない農民」の形態の一つ。
農奴は個人の財産と婚姻の権利があるのですが、

土地の移動に関する権利を持たず、「土地に縛り付けられた」存在です。
土地保有者の「土地」に付属する資産だったわけですが、
これはあくまで「中世の農奴」
西ヨーロッパでは時代が下って行くにつれて姿を消していきました…が


東ヨーロッパでは事情が違ったのです。
特にロシアにおいては

中世ロシアにおいては「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていました。
しかし、領主に対して負債がある農民は移動の権利が行使できなかったので、
多数の農民が土地に拘束されていたそうです。

しかし、この頃は負債さえ返せば領主に移動を制限する権利は無く、
領主に与えられる逃亡農民の捜索権と身柄引渡請求権は一年間のみ有効と定められている上、

南の「ドン・コサック」に逃げ込めば身柄を引き渡されることもなかったそうです
(この頃もロシアは東コサックの軍事力をアテにしていたため、
習慣法を理由に「身柄引き渡しには応じない」と言われれば引き下がる他無かった)

1600年代には逃亡農民捜索権・身柄引渡請求権の機関が無期限に延長され、
逃亡農民をかくまった場合多額の罰金が定められましたが
帝政ロシアの時代に比べればまだまだマシです




その後、帝政ロシアが誕生すると、
「人頭税」が設定されました

「人頭税」は国民一人につき一定額課すもので、
その額には納税能力など一切関係なく、どのような収入があっても一定額でした

このような税金を課した理由は、単純に「軍事費」でした
北方大戦争を終えて列強の一つとなったロシアの軍事費を確保するために人頭税が始まったのです
人頭税の徴収は軍隊の農村配備によって配置された部隊によって行われました。
自分達の飯の種ですから、徴収も見逃しがない様きっちり行われました



さらに時代が下ってエカチェリーナ2世が即位すると、更に悪化していきます

エカチェリーナ2世は貴族に支持されてクーデターを起こした結果即位したので、
政策も(皇帝から引きずり降ろされないためにも)貴族優遇にせざるを得ませんでした
(本人は逆に農奴制を緩和することを提案しているが、貴族の猛反対にあっている)

その頃英国では産業革命が発生しており、
農民の都市への流出とそれに伴う食糧生産量の低下によって食料を輸入せざるを得ませんでした
そのためエカチェリーナ2世は英露通商条約を結び、輸出関税を引き下げ、
イギリスに対して食料の輸出を始めたのでした。

領主たちは西欧に食料を輸出すれば儲かる事に気づき、
農奴に対する搾取をさらに加速させていきました

いつ認められるようになったのかは分かりませんが、
農奴はついに土地とは別の「資産」として扱えるようになり「土地に拘束された農民」という定義すら崩壊してしまいました
当時の新聞には
「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などという広告が掲載され
古代奴隷制と変わらない農奴市場が誕生していたことが伺えます

農奴はあくまで「移動と職業選択の自由がない農民」であって、土地ごと売買されることはあっても
農奴だけで売買されることは無かった。

農奴が土地、家畜、建物と同列の「資産」となったため、
農奴の主は土地を所有する封建領主だけだったはずが、「主人」という形に変わっていきました

当然、家族と引き離して売買することも出来れば
主人に不服申立てもすることは出来ない。
その上、主人には気に入らない農奴を「シベリア送り」にすることも認められた

家族と引き離されてシベリア送りにされた農奴たちに「家族でシベリアに送られたならば、主人の元で生活するよりどれだけ幸福であったか」と言わしめるほどこの頃の農奴の扱いはひどかった
(御存知の通り、シベリアは西ロシアに比べて農業もまともにできない上、冬には-40度になることなど当然で、そもそも帝政ロシア期は人がほぼ居ないため当然未開拓である)

逆に、貴族はどうかと言えば「ロシアで唯一の自由な身分」とされており、
租税、軍務を免除され、裁判は同僚のみによって裁かれ、
彼らを有罪とするには皇帝の許可が必要位という。分かりやすい特権階級であった

身分階級が「貴族」と「(農奴を含む)それ以外」などという有り様である。

エカチェリーナ2世の権力基盤が貴族からの支持であり、それを裏切れるほど強固なものではないため
ほぼ本人の意志に関係なく取り巻きの貴族によって政策が決められている有り様だった


更に時代が下り、
1850年辺りになると流石に農奴制も改善の兆しが見えてきた。


1825年にデカプリストの乱が発生。
これはナポレオン戦争でフランスなどへ行った兵士たちが
自国の悲惨な生活と比較して、自由主義と人権が唱えられる西欧との違いに衝撃を受けた事が発端とされ、
専制政治と農奴制の廃止、立憲代議制への意向を目的に反乱を起こしたが、
一日で鎮圧されるも後の二月革命などに影響を与えた

1861年、アレクサンドル2世が農奴解放令を発布したものの、
農地は無償で分与されるのではなく、
政府が規定する価格で、農民が負債を背負った上で地主から土地を購入しなければならなかった。
(これらの負債は1907年に支払い義務が停止した)

法的には農奴制は廃止されたが、負債と土地などの財産割り当てを理由として
農民の生活はかえって苦しくなったため暴動が各地で発生した。


そして一次大戦に入った後、「二月革命」が起きる。
(のですが、その前にクリミア戦争をやらなければ・・・)






かなりすっ飛ばし気味な上「本当にこの記事必要なのか?」といった感じなんですが、
ソビエトの生まれる原因としてよく挙げられますし、
ウクライナに関してはソビエトになってからも…

ロシア革命の前にクリミア戦争周りを書かねばなりますまい

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2014年4月11日金曜日

ロシアとウクライナ:列強の都合で消えたり現れたりする国家

さて、前回対戦車戦闘の話をするといったな
申し訳ない。アレは嘘だ



かなり評判と需要がありそうなので「ロシアとウクライナの歴史」でも書いてみようかと思います
(ただし、記事を書き終えた今更ながら、この記事は現在起こっている問題とあまり関係が内容にも思えます)

さて、8世紀頃のロシアとウクライナにおいては、「ルーシ」と呼ばれる国家があり、
これが今のウクライナの首都、キエフを首都とした国家を形成していました

「ルーシ」から「ロシア」という名前が付けられたと言われています。

10世紀にはルーシは国家の名前から国家集合体の名前に変わり、キエフ大公国とその周辺の小国家によって構成されるようになり、
後にロシアの基礎となるモスクワ大公国もその小国家の一つでした。
12世紀、モンゴル帝国のロシア侵攻によってルーシの国家は全てモンゴル帝国の支配下に組み込まれました。

そして、モスクワ大公国はモンゴル帝国の力を利用して勢力を拡大、ロシア・ツァーリ国に移行します。

時は15世紀、この頃キエフ公国(というか現在のウクライナ)は既にリトアニア、ポーランド、ロシア、クリミアによって分割されており、
今のウクライナの正当な先祖となる国家は存在しませんでした
(この場合のクリミアはクリミア・ハン国であってモンゴル帝国分割の結果発生したジョチ・ウルスが崩壊して残った国家の一つ)
1600年頃 クリミア・ハン国を中心としたクリミア周辺図
南にオスマン帝国、北東にモスクワ大公国(ロシア)
北西がポーランドとなっており、何処にもウクライナに相当する国家は無い

15世紀。ポーランドとリトアニアは連合国家となり、「ポーランド・リトアニア共和国」となり
今のウクライナに中る地域は「ポーランド・ウクライナ」と「帝政ロシア」の2つに分割されました
(あと、クリミア・ハン国)

そんな中、ウクライナ中等部で「コサック」という軍事集団が誕生。
これら「コサック」は欧州諸国の没落貴族と遊牧民と盗賊によって構成されていました。

コサックは2つに分けられ、西のポーランド・リトアニア寄りのドニエプル川を中心とする「ザポロージャ・コサック」
ウクライナの大半を占め、中心都市キエフも抱えているので、
こちらがウクライナの正当な先祖といえるでしょう

もう一つは東のドン川を中心とする「ドン・コサック」
ロシアのコサックというのはこちらで、その勢力圏は現在のロシア連邦と東ウクライナに含まれています

西のザポロージャ・コサックは西欧へ傭兵として赴き、
東のドン・コサックはクリミア・ハン国とオスマン帝国との争いを繰り広げるうちに強力になっていき
ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国から正式な軍事組織として認められるようになりました。

これはコサックの軍事力をアテにし、有事の際は軍に編入することを条件に
コサック独自の勢力圏を認めるということで、
実質的に自治権に近いものを認めたと考えられます

しかしながら、ロシアもポーランド・リトアニアも軍事力を当てにする割には
コサックの自治権の縮小とコサックの領地の没収による自国領拡大を続けていき、
これに対する反乱が多数発生していました

ザポロージャ・コサックの反乱は次第に独立運動へと変化していき、
1649年頃、ポーランド・リトアニアへの反乱が成功し外交権を得て実質的な独立。
「ヘーチマン国家」と呼ばれる国家が誕生します。
ヘーチマン国家の勢力圏
見事にドニエプル川に沿っている。
黒海沿いからクリミア半島にかけては「クリミア・ハン国」の領域

この時の反乱の際、ポーランド・リトアニアと敵対していたロシアやオスマン帝国に支援を申し出た事が
長きに渡るモスクワのウクライナ支配の始まりだとも言われています


一方東のドン・コサックはロシアへの反乱に失敗。
自治権は無くなり、ドン・コサックの領地は全てロシア領となってしまいました
(現在独立編入運動が発生しているルガンスクはこの際ロシアに編入)


「ヘーチマン国家」は軍事的、政治的に完全な独立は難しかったため、
オスマンやロシアに保護を求め、ポーランドとの戦争でロシアとともに戦ったヘーチマンであったが、初代指導者の死後ドニエプル川を挟んで勢力が分裂、

ロシア・ポーランド戦争は主に現在のウクライナを戦場にして戦ったため、
国土は荒廃し、ヘーチマン国家は衰退していった

1667年、アンドルソヴォ条約によってロシア・ポーランド戦争は終結。
ヘーチマン国家の処遇に関しては「ドニプエル川から西はポーランドに、東はロシアに」という結果となり、
この時、実質的にヘーチマン国家は滅亡。
ロシアが獲得した、所謂「左岸ウクライナ」
現在の首都キエフも含まれる

先祖どうこう言ってましたが、形式的にもヘーチマン国家を継承しているわけではないんですよね


次回は、ついに帝政ロシアの登場。
食料の圧倒的搾取と産業革命に伴う飢餓輸出までをやろうかなと思います



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2014年4月9日水曜日

ディズニーで覚える対戦車戦闘(本物)

えーとですね、タイトルは事実ですが中身は対戦車戦闘の話です。



現代において、戦車と歩兵が戦う際にはロケットランチャーや無反動砲は欠かせません。
RPG-7やバズーカなんかが有名です。

しかし、それらが現れる以前の時代にはどのように戦車と戦っていたか。というお話です





戦車の登場は御存知の通り、一次大戦にまで遡ります
イギリス軍のマークI戦車
一次大戦は、死体の山を積み上げる戦いでした。
それまで、数千年間用いられてきた歩兵による突撃は塹壕と機関銃の組み合わせによってことごとく阻止され、
日露戦争において既に機関銃と塹壕の組み合わせの凶悪さは垣間見えたものの、
欧州諸国はそこから学ぶこと無く、
歩兵の突撃は無意味であると各国が気づいた頃には既に数百万単位の死体の山が出来上がっていました

世界ではじめて発生した先進国による国家総力戦は
双方の国力を限界まで使い、すり減らし、死体の山を更に積み上げる。

そんな中、塹壕を突破するためにとある兵器が生まれました。それが戦車です

「トラクターに装甲を貼り付けた物」だとよく言われますが、基本そんな感じです。
しかし、機関銃の攻撃を物ともせず、歩兵の突撃速度を低下させていた鉄条網を踏み潰し
塹壕を乗り越えて走るそれは
まさしく「鋼鉄の動く盾」

歩兵から見れば非常に頼りがいのある存在でした…が

戦車も無敵では有りません。機関銃には耐えられますが野砲には耐えられない。
塹壕のはるか後方で砲撃を行う砲兵の一部を戦車対策に回せば撃破できるという事が分かり、
前線に野砲が配備されましたが、
ただでさえ砲兵が足りない上、野砲も足りない状況では全ての前線に野砲を配置できませんでした。

しかし、歩兵のライフルが使うのは機関銃と同じ7.7mm弾。
これでは戦車の装甲に弾かれてしまいます
そこで砲兵でなく歩兵が運用する対戦車兵器「対戦車ライフル」が誕生します

ボーイズ対戦車ライフル
当時の歩兵のライフルが7.7mm弾を使う物がほとんどの中、
13.9mmや14.5mm等の大口径ライフルで戦車の装甲を貫通させ
中のエンジンや搭乗者等に加害することによって戦車を無力化、または弱体化させようとしたのです

M82バレットなどの対物ライフルはこれらの子孫といった所でしょうか

そして、タイトルに戻ってきます。
それは1937年のこと。一次大戦からかなり過ぎていますが、
歩兵が、それなりの距離から戦車を攻撃する手段は当時対戦車ライフルしかありませんでした。

1937年。英軍はボーイズ対戦車ライフルを採用し、
その対戦車ライフルを導入したカナダ軍が教育用に「ディズニー」に制作させたアニメがあります
アニメの感じを見てもらえばわかると思いますが、ディズニーで間違いないでしょう。

(正直、かなり分かりやすく動画になってるのですが英語な上軍事に興味の薄い人だと分かりにくいかも)

同じ動画はニコニコ動画にも上がっていて、一部コメントで字幕が付いているのでそっちのほうが見やすいかもしれません






さて、動画でも出てきましたが、このライフルの使い方などを述べていきましょう

この頃の戦車では対戦車ライフルでは基本的に戦車に有効な被害を与えられません。
弱点に当たればいいのですが、そんなに正確に狙えるものでも有りませんし…

また、口径が大きく、弾も大きく銃も重いです。
銃に弾を装填した状態で21kgもあります。弾薬1発1kgとかいう世界。

しかも、衝撃で数発撃ったら肩は痛くなるわ戦車の近く(100m)まで近づかないと当たらないわで
本当に使える武器なのか疑問になりますが、
軽装甲車にはある程度有効だったそうです。
PIATやバズーカが出てきたらそのまま溶鉱炉に投げられた程度の性能と戦果でしたが。

次回は対戦車ライフル以外の対戦車攻撃手段を紹介しましょう。

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2014年4月8日火曜日

英国面:おもちゃの対戦車迫撃砲

さて、前回まで迫撃砲に関して解説していたわけですが、
迫撃砲の中でも「スピガットモーター」と呼ばれる分類があります。
日本語で「差し込み式迫撃砲」といった感じです
典型的な「スピガットモーター」 砲口よりも弾頭が太いのが特徴
普通の迫撃砲よりも弾頭を安価に製造できてるため、一次大戦の内は使われてた訳ですが

普通の迫撃砲よりも弾頭が重く、速射性に乏しいため2次大戦頃には使い方が限定され始め、
いくつかの派生型を残して二次大戦後にはほぼ無くなってしまったわけです

その派生というのの一つが、「対潜迫撃砲」
対潜迫撃砲の代表的存在 英国の「ヘッジホッグ」

爆雷投射機よりさらに広範囲にばら撒き、進行方向正面に対しても投射出来ます。
ロシア軍では現在でも対潜迫撃砲を搭載しているようです

もう一つは、「ライフルグレネード」
M1ガーランドに22mライフルグレネードを装填
空砲を装填し、銃口からグレネードを差し込むことで使えるタイプのグレネードランチャーで
現代でも使われており、自衛隊は2006年に新たなライフルグレネードを採用しています
06式小銃てき弾

さて、話は変わりまして、時は二次大戦。

HEATの開発によって携行型対戦車兵器が進歩してきたころ
(HEATの解説は長くなるのでまた今度しましょう)

アメリカはバズーカ、ドイツはパンツァーシュレックとパンツァーファウストを開発して
歩兵による対戦車攻撃が今まで以上に容易になりました

M1バズーカ 
本来「バズーカ」と呼ばれるのはこの兵器の派生型のみ

                       
上がパンツァーファウスト
下がパンツァーシュレック

これらは、「HEAT」という仕組みを持った榴弾を敵戦車にぶつけるためのものですが、
英国でも同じように歩兵が戦車を攻撃できる兵器を作りました

それが「PIAT」である
PIAT
PIATは他国の対戦車兵器のように「無反動砲」や「ロケットランチャー」ではない。
PIATはスピガットモーター。迫撃砲なのだ




また、PIAT最大の特徴としては発射装薬を最小限に抑えるため、
弾体を発射するために「バネ」を用いていることにある





そう。バネを使用している。


別に閉鎖機構がどうとかファイアリングピンがどうとか言うわけではない。
純粋に、そして単純明快に「弾を発射するために」バネを使うバネ砲なのだ
砲身の中が見える状態のもの
巨大なバネが詰まっていることが分かる
実際には弾体に普通の迫撃砲と同じように発射薬は入っているのですがそれはあくまで補助的なもので反動を用いてバネを圧縮することで連続射撃を可能にしています

この機構を採用したことによって、
他の対戦車兵器では出来なかった「室内からの射撃」を可能にしています

B-10無反動砲を室内で射撃。SPGは室内射撃可能だが部屋が真っ白になる

ロケットランチャーや無反動砲は砲の後方に排気するため、この排気の熱で火傷したり、
衝撃で気絶したりすることがあるのです
後方確認せずにRPG-7を撃つとこうなる

それに比べてPIATは迫撃砲なので後方への排気もなく、
主にバネが使われるので煙も出ないので場所がバレにくいという利点がありました。

最も、建物の二階から撃とうとPIATを下に傾けると弾体が落ちますが。
射程は大体100m この頃の対戦車兵器としては十分なものだと思われます

因みに、最初使うときには必ずバネを縮める必要があったのですが、
バネを縮める際に背骨を痛める兵も多かったとか…

次回は、面白い作品を見つけたので対戦車兵器の進化とHEATの話でもしましょう。
お楽しみに。ハハッ

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2014年4月3日木曜日

非正規兵と正規兵の装備の違い:榴弾砲と迫撃砲2

ようやく迫撃砲の話ができます。因みに個人的に一番好きな兵器かもしれません。

迫撃砲の起源は「臼砲」まで遡ります

臼砲というのは、それ以外の大砲に比べて口径が大きく、短いのが特徴です
聖ヨハネ騎士団の臼砲。砲本体は3.3tもあり、砲弾は260kg
初期の臼砲は重い砲弾を壁にぶつけるための「投石機」的な役割が大きく、
砲も砲弾も非常に重い物でした。

17世紀あたりになると、榴弾を発射できるような臼砲が現れ、
壁にぶつけるにしろ、人間を狙うにしろ
軽い砲弾で高い威力を発揮できるようになりました。
(榴弾とは、砲弾の中に火薬を入れたもの。砲弾が当たると爆発するのはそのせい)

これにより臼砲は「普通の大砲に比べて軽量で持ち運びしやすい(つまり機動力が高い)
(但し、命中精度は悪く射程も短い)
という特徴を備え持つようになりました

その後、臼砲は2つの系統に分かれていきます

一つは、要塞や防御陣地を粉砕するために再び重量サイズ共に大きくなったタイプで
クリミア戦争(1854)に使われたマレット臼砲などがそれに当たります
マレット臼砲。口径91cmで砲単体で40トンもあり
砲弾も1.3トンある
このタイプの臼砲は分解することにより輸送されていましたが、
次第に車両で牽引したり、鉄道車両に載せたりするようになりました

13インチ列車臼砲
この系統の臼砲は更に巨大化を進め、60cm砲を搭載するカール自走臼砲に到達します

60cm砲を搭載するカール自走臼砲
マジノ要塞線を粉砕破壊し突破するために作られた

しかし、この重く、機動力が低いタイプの臼砲は二次大戦後一気に衰退します。
理由は非常に簡単。
破壊するべき要塞が無くなったからです。


そして、軽量で機動力が高いタイプの臼砲は日露戦争より「迫撃砲」として、
別の兵器として進化していきます。
英語だと臼砲も迫撃砲も同じ「Mortar」なんですけどね

日露戦争時に日本軍が「打ち上げ花火の容量で爆薬を的に届ける」という発想で
戦場において創りだしたのが迫撃砲の始まりだとも言われます

一次大戦時、ドイツ軍で使用された迫撃砲
一次大戦になると、塹壕と機関銃によってどんな多数の歩兵による突撃も阻止されるようになり、
機関銃を排除するために突撃前に数時間にわたって砲弾の雨を降らせても
退避壕に逃げられて、砲撃が終われば出てきて機関銃を配置し、
突撃が始まる頃には機関銃の再配置が終わっていたのです

そして、再配置が終わった所に突撃してきて再び死体の山が発生するという感じになります。

(退避壕とは、防空壕のように穴を掘って補強したもので、砲撃中はここに退避することで砲撃による被害を最低限に抑える)
右から左下にかけてがドイツの塹壕線 第一線だけでなく、後方にも第二線以降の塹壕が伸びているのが分かる
左上はイギリスの塹壕線。この間に死体の山が発生した


だったら、突撃する歩兵が機関銃の位置を把握してから直接機関銃手を狙って攻撃できればいいわけですが、
ライフルで撃って撃破できるくらいなら突撃はそもそも失敗しませんし、
大砲で吹き飛ばすにしても軽いものでも数百kgになり、歩兵が背負って移動できるものでは有りません。

そこで、迫撃砲を数人の歩兵で持って行き、機関銃の配置を目視で確認しながら砲撃するという手段が取られたわけです

このため、迫撃砲は「砲兵」でなく「歩兵」によって運用され、
現代でもほぼ全ての軍隊において砲兵隊でなく歩兵隊による運用がなされています

(砲兵はその名の通り後方からの長距離支援砲撃を主に行うのに対し、歩兵は前線で銃を使い戦闘を行う。迫撃砲は歩兵に随伴して歩兵が見える位置で砲撃を行う)


一次大戦で使われた「ストークス・モーター」は現代のものと外観も構造もほぼ変わらず、
二次大戦を経ても未だにほとんど構造が変わっていない兵器です
イギリスの迫撃砲「ストークス・モーター」

現在自衛隊で運用されている「L16 81mm迫撃砲」
筒と三脚という基本構造は変わらず、違うのは照準器くらいだろうか
さて、ここで迫撃砲の砲と砲弾の構造について少し確認しておきましょう。
砲も砲弾も、一次大戦の頃から殆ど変わっていません

迫撃砲の筒の中。つまり砲身。螺旋状の溝は掘られていない。
筒の底にファイアリングピン(砲弾に衝撃を与えて発車するための針)が見える

迫撃砲は基本的に螺旋状の溝(ライフリング)を持ちません。
迫撃砲弾。左側が下になり、右側を戦闘に飛んで行く。
右側に「羽」がついている
これは、砲弾が「羽」を持つためで、回転させずとも空気抵抗によって飛行姿勢が安定するためです
(ライフリングは先日紹介したように、回転させて『コマの回転効果』を発生させることで
弾の飛行姿勢を安定させて長距離に飛ばす技術なので、『羽』がある場合は不要)



その他に、迫撃砲の特徴としては「発射速度が速い」というものがあります
こちらは迫撃砲。砲弾がどんどん撃ち込まれていきます
10門もあればトラック一台分の砲弾が10分くらいで無くなることでしょう


対してこちらは榴弾砲。流石に迫撃砲よりは遅いですし、
迫撃砲は3人で運用できますが榴弾砲は10人ほど必要になります


迫撃砲は射撃準備が簡単で、榴弾砲が5分ほどかかるのに対し
迫撃砲なら移動してきて1分ほどで射撃を開始できます。

「歩兵が持って移動できる。つまり目立たない」
「直ぐに射撃準備ができて撤収も速い」
「命中精度は悪いがその分適当に撃って連射速度でカバーする」

さて、このような特徴で運用しやすいのは誰か。
非正規武装組織やゲリラなんかとしては

「すぐに砲撃を開始できて、一気に射撃して直ぐ逃げる」ということが出来ることに利点を見出すわけです

(動画は探したんですがちょっと見つかりませんでした)

榴弾砲を運用するには専門の知識と機材が必要で、
構造も複雑でメンテナンスも面倒になります



とまあ、武装勢力が射撃する動画は無いのでお詫びに探してる途中で見つけた動画を
紹介しましょう



こちらは動画タイトル通りで、よく見ると迫撃砲の弾を上下逆に装填してます。
飛んできて着弾するする方の信管を叩いてしまうのでそりゃ爆発もしますわ
確認ミスですね。正規軍なんかじゃこういうミスはしません。



不発で慌てたりはするようすが。
(ちなみに自分は不発弾を動画で見ても恐怖するようになりました ゲームのしすぎですかね)

他は、シリアのものが一本。


子どもたちが話しているすぐ後ろに迫撃砲が降ってきました。
合成かとも疑ったんですがそれにしては手が込みすぎです。

しかし、シリアは戦場が生活に近すぎますわ
子供を利用して「〇〇反対」なんて言ってる連中は分別してゴミ箱に入れたい位嫌いですが、
これはいくらなんでも…

この動画を見た後あの自爆した迫撃砲を見ると「ざまあww」といいたくなりますが
これは政府軍の砲撃で、上の自爆動画は反政府側なんですよねえ…

あともう一本。
結局、シリアで反政府側が迫撃砲を撃ってる動画は見つかったのですが…
利点である連射速度を生かせていなかったのでボツにしました。
まあ、仕方ない面もあります。反体制組織が手に入れられる迫撃砲と砲弾は質が悪く、
逆さまに装填しなくても暴発することも少なく有りません。
なので、正規軍のようにどんどん装填してどんどん射撃なんてことができないのです

それをやったらどうなるかといえば
こうなります。これはTalibanrと言われてますが詳細は不明です。
装填方向を間違えたわけでもないのにこうなる所が非正規軍クオリティ


次回は(もしかしたら)変な迫撃砲達を紹介するかもしれません

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2014年4月1日火曜日

英国面:命尽きるまで核兵器を守る

核兵器というと、弾道ミサイルに載せた戦略核兵器を思い浮かべる方が多いと思いますが、
核兵器は何もミサイルだけに積むものでは有りません。

少なくとも、20世紀では。



世の中の核兵器は大きく分けて2つに分けられます
一つは「戦略核兵器」
ICBM、大陸間弾道ミサイルやSLBM 潜水艦発射弾道ミサイルに搭載されている核弾頭なんかは
全て戦略核兵器という扱いになります。

戦略核兵器は戦略目標を達成するために使用され、
戦場ではなく戦場より後方の地域で使われることが多いです

例えば、都市部や発電所、その他のインフラへの攻撃に用いて相手の国力と生産力を削る事で継戦能力を低下させたり
敵が反撃する前に敵の核戦力を撃破し無力化させるために使われます
潜水艦発射弾道ミサイル「トライデント」



500km以上の射程を持つものが戦略核兵器とされるそうですが、
威力や運用法によってはそうでない事も有ります。
分類が曖昧な核兵器に関しては実際の使い方次第ですね

もう一つは「戦術核兵器」
中短距離の弾道ミサイルや米軍が現在も配備している核爆弾(B61 B83など)がこれに当たります
現在も配備されている米軍のB61核爆弾

こちらは戦術目標を達成するために
戦場で敵の兵士等の戦力、前線指揮系統を撃破、混乱させるために使われます

味方まで巻き込まないように戦略核兵器よりも低威力で、B83などは搭載前に威力を調整できます

戦略核兵器は弾道ミサイルに留まらず、
巡航ミサイルや航空機爆弾、核魚雷、核砲弾、核地雷など様々なタイプが有ります

核兵器はその重さに比べて高威力で、
ソ連が物量作戦で押してきた際に待ちぶせ迎撃を行ったり
逆に侵攻前に砲撃を行うことで敵戦力を殲滅して進軍するという事を想定して
戦術核兵器は開発、配備されていきました


米軍のM65カノン砲によるW9核砲弾の射撃実験
1953年5月25日 ネヴァダ砂漠にて
この頃は残留放射線や放射線の人体に対する影響がまだあまり分かっておらず、
この砲撃の後に砲撃した地点に歩兵を徒歩で前進させるつもりであった。

元の記録映像にはこのカノン砲発射するために時限装置を仕掛けた後、近くの塹壕に入るところまで記録されている。
爆風さえ凌げればそのまま爆心地まで徒歩で移動するつもりだったのだろう

因みにこのW9核砲弾は広島に落とされた「リトルボーイ」とほぼ同威力だそうです


さて、今回の本題はとある戦術核兵器の話です



時は1950年代。ソ連がいつ攻めてくるかも分からなかった西ドイツにおいて、
ソ連の物量作戦に対抗しうる戦術核兵器が計画されました。


それは、「核地雷」でした。

地雷と言ってもセンサーなどで起爆するのではなく、
あらかじめ埋めておいて遠隔操作か時限装置で起爆するものでした。

大量破壊と放射性降下物を発生させることでドイツにおけるソ連軍の侵攻速度を遅くしようと考えたのです。
「イギリスが」

つまり、イギリスはドイツに核兵器を埋めようとしたのです。
しかも、「西ドイツに秘密で」

当事国に秘密で核兵器を秘密裏に西ドイツに埋めてしまおうと考えたのです
当然、バレた時の外交的リスクは計り知れません。


さて、話はちょっと変わりまして、
電子機器のバッテリーというやつは低温では動作不良を起こすもので、

極端な例ではありますが
火星探査機「オポチュニティ」は2010年、冬季に入り太陽光発電パネルの発電量が低下する時期に太陽の方向(南半球だったのでこの場合は北)を向くことに失敗し、
-100度という極寒をヒーター無しで耐え切ることが出来ず通信が途絶しました。

冷たいドイツの大地に埋めるのですから何かしらの方法で暖める必要があります。
断熱材等で核地雷を包む案もあったのですが採用されませんでした


さて、では核地雷においてはどのような方法でこれを解決したのか
それは




「生きた鶏で保温する」





というものでした。

何も鶏だけをそのまま入れるのではありません。
時限起爆装置の設定時間は8日だったので、8日間生きてればいいのです
そのために餌と水も一緒に核地雷の中に入れられました

鶏の体温であればバッテリーを含む電子機器を維持するのに十分な温度が得られると考えられたのです

鶏が何らかの原因(高確率で放射線障害ですが)で死んでしまった場合は核地雷を掘り返して鶏を交換すれば良いし、
8日間を過ぎた鶏はそのまま解体して美味しく食べてしまえばいいのです(絶対に食べたくないですけど)

核地雷は8日間掘り返されなければ自爆するように設定され、
英軍司令部までの有線ケーブルが引かれ、いつでも起爆できるようになっていました。
(因みに、所定の操作をせずにケーブルを切断したら10秒以内に鶏もろとも起爆するそうです)

この核地雷には「ブルーピーコック」という名前が付けられました。
青孔雀という意味があるそうです。鶏が関係してないとは思えませんが。

この核地雷の威力は約10kt。広島に落とされた「リトルボーイ」が15ktですから、結構な威力があります
ブルーピーコックのプロトタイプ。
この中に鶏を入れるつもりだったのだろうか



結局、鶏を入れることで決定し、ドイツに埋めるため10個の核地雷が発注されました…
が、


同盟国、というか他国の領土に無断で核兵器を埋めるという外交的リスクがあまりにも大きすぎるため量産と配備は中止されました。
どうも爆弾自体に技術的問題があったわけではないようです

その後試作されたブルーピーコックは核爆弾を抜いて保管されたそうな


この計画に関する書類は(西ドイツに知られたら絶対に激怒するので)長い間機密指定され、
国立公文書館で保管されていたのですが、


機密指定が解除されたため2004年4月1日に公開されたのです。

結局、ブルーピーコックは公文書館によるジョークだったのでした。

ええ。10年前の嘘です




















と思いたいのですが英国面はそんなに甘くない。
嘘であるのは間違いないですが、
嘘なのは「公文書館によるジョーク」という部分であって、

それ以外は全て事実です






実際に2004年4月1日にブルーピーコックに関する文書が公開された当時は

インターネット上などでは日付の事もあって「エイプリルフールのジョークだろう」
と思われていたようです

そのため、公文書館はエイプリルフールの冗談ではないという表明を出したそうな
その時のBBCの記事から引用すると

"It does seem like an April Fool but it most certainly is not. The Civil Service does not do jokes."



だそうです。いくら公共放送で
「車を頻繁に破壊したり」「コメディ番組で民放のオープニングパクったり」「首相がそのコメディ番組のネタを公式な場で使ったり」する国でも

公文書館は立場的にジョークなんて言っちゃいけない立場ですしね




(実はこのネタ、出せるまで待ってた)