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2014年5月15日木曜日

ロシアとウクライナ:ソビエト崩壊とクリミアのウクライナへの編入。

さて、前々回ベルリンの壁が茶番でぶっ壊れた話をしましたが、
では、ソビエト本体はどのように潰れたのか。今回はそれの話です

ソビエト崩壊の話に入る前に、戦後のクリミアの話を少ししておきましょう
大戦中、ドイツ軍がクリミアに上陸し、3年間に渡って戦闘を繰り広げました

戦後、ソ連政府はクリミア半島にジョチ・ウルス、クリミア・ハンの頃から住んでいた
クリミア・タタール人を中央アジアへ強制移住させました。
戦中ドイツに協力した者が居たことを理由に民族ごとシベリア送りにされたのです。
(実際に送られたのはソビエトの中央アジア地域ですが広義のシベリア送りでもあります)

移住の過程で約半数に当たる10万人が死亡したとされますが、
スターリン時代のソ連では「その程度か」で済むレベルでした。
1940年代までのソ連において大量死は民族問わずそこまで珍しいものではないです

1954年、スターリンの死後クリミア州はロシア・ソヴィエト共和国から
ウクライナ・ソヴィエト共和国に表向きの理由は
「地理的、経済的関係がウクライナと密接であるため」という理由で、
実際のところはソヴィエトを主導するロシアに対してのウクライナ国民感情を抑えるため、
友好の証として割譲されました。

当時はどちらもソヴィエト連邦であったため、この割譲にはそれ以上の意味はないものでした。
その意味のないものが今年になって大問題になったわけですが。



ソ連の限界


1980年台後半のソ連。


肥大する軍事予算、それでも追いつけないアメリカとの軍事力差、
停滞する経済、慢性化する汚職に、不足する物資とそれに不満を持つ人民。
更に東欧諸国を始めとする社会主義各国への経済支援の負担

「労働者の祖国」と称しながら実際は労働者、
特に農業従事者を冷遇し、抑圧し支配するというのがソ連であり、
革命の原因であった農奴制からの農民の不満のことを考えると何のための革命だったのか という考えが浮かびます


ソビエト社会主義が限界を迎えていたのは誰の目にも明らかでした

ソ連末期、モスクワ市内の店舗
明らかに物資の種類が少ないのはやはり社会主義が原因でもあるが、
それでも1960年台と比べると明らかに減っている。
首都ですらこの有り様なので、地方は更に劣悪な状況であることは言うまでもない


ゴルバチョフはペレストロイカ、つまり再改革とグラスノスチ、情報公開を進め
急激な改革を行わないことで保守派の反発を抑えつつ社会主義からの順次脱却を図っていました。

東欧諸国にも圧力をかけ、ポーランド、ハンガリー等が一党独裁体制から脱却し民主化していきました

但し、ゴルバチョフはソビエト連邦は解体せず、当時の連邦を維持したまま
極端な中央集権体制だったそれまでのソ連から脱却し、
地方分権と新たな連邦条約を結び、『新ソビエト』とも言える新たな連邦制を想定していました。

そのため、エストニア、ラトビア、リトアニアという所謂「バルト三国」の独立要求に関しては武力鎮圧を行う立場を取りました。
因みに、この3ヶ国は歴史的に深い関係性があるわけではなく、
強いて言うなら「ロシアに侵略され、『小銭扱い』される運命共同体」である事くらいです

しかしながら、ロシアの動きによって同じような運命をたどることになるバルト三国は
ソ連崩壊に際して協力体制を持っていました。

1989年の3カ国に渡る「人間の鎖」は
3ヶ国の共産党が計画し、実施する際にもルートを周到に調べ上げ、
参加者を輸送するためにバスを手配したり、参加者全員がラジオ放送聞くことで調整したりなどの大規模な計画のもと実施されました

つまるところバルト三国の共産党、もとい自治政府の政治的メッセージだったわけです


ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチは一定の効果を上げていましたが、
ゴルバチョフは保守派の反発を抑えるため、急速な改革は行わない方針で、
経済政策に関して、保守派との妥協点を見いだせず、行き詰まってしまいました。

そんな中でボリス・エリツィンが台頭してきます。
保守派との妥協などせずに切り捨てて、改革を早急に進めるべきであるというのがエリツィンの考えでした

1990年、国民世論は既にエリツィンらの急進改革派支持に傾いており、
保守派の話など最早誰も誰も聞かないようになっていました

1991年の大統領選においてエリツィンが勝利し、
保守派の候補者が惨敗したことが更に保守派を追い詰め、クーデターを発生させることになりました
(ソヴィエト連邦の大統領ではなく、ロシア共和国の大統領である点に注意。
当時のソヴィエト連邦大統領はゴルバチョフ)

ソ連8月クーデター・8月革命

ゴルバチョフはソヴィエトの新連邦条約を準備していました。

この新連邦条約は各主権共和国の権限を拡大し、ソヴィエトをより「ゆるい」繋がりにするものでしたが、
保守派はこれを「バルト三国などの国を完全独立させる原因になりかねない」という主張をしてこの条約に反対しました。

調印の予定日は8月20日、クーデターはその前日に起きたのです

1991年8月19日、
クリミアの別荘で休暇中だったゴルバチョフは保守派だった副大統領に
副大統領への全権委任と非常事態宣言の受け入れを要求されるも拒否し、
別荘に軟禁されました

保守派は「ゴルバチョフ大統領は体調不良で執務不能なため副大統領が執務を引き継ぐ」と発表。
モスクワ中心部に戦車が出現し、国営放送は保守派に占拠された。
(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。)
クレムリンの前に展開するT-80UD



エリツィンは記者会見を行い「クーデターは違憲、保守派の行動は非合法」として
ゴルバチョフ本人に全権委任の証言をさせることを要求し、
エリツィンは「ベールイ・ドーム」付近の戦車兵を説得して寝返らせ、
そのまま戦車の上に乗って演説を始めた。
エリツィンの呼びかけに集まった市民らによって「ベールイ・ドーム」の周囲にバリケードが設置され、

市民は火炎瓶や銃を持ち寄り、保守派との臨戦態勢でベールイ・ドームに陣取った。
参加した市民の総数は翌日には10万人にもなった。

これらはテレビ・ラジオ放送や新聞が利用できない状態で集まったもので、
保守派の監視がインターネットに及ばなかったために西側諸国に情報が伝わりそこからモスクワに情報が戻ったとも言われている

ベールイ・ドームの前の戦車の上で演説を行うエリツィン
ベールイ・ドームはロシア語で「白い建物」 要はホワイトハウスである
その後クーデター側からの寝返りも多発し、
ストライキ、デモも国内各地で発生。国民が保守派を支持していないのは誰の目にも明らかであった
また、市民が保守派の戦車部隊と衝突。戦車2台を撃破したが十数人の死者が出た。

結局、クーデターは失敗に終わり、
クーデターの首謀者は当然拘束されることとなった。

しかし、その首謀者というのがゴルバチョフの側近ばかりであったため、
皮肉にもゴルバチョフの信頼も失墜、それに伴い共産党の信頼も失墜した

8月末にはモスクワ中心街で共産党活動を禁じる大統領令にエリツィンが署名、

12月、ゴルバチョフは「ソビエト連邦構成共和国離脱法」を成立させた後、
ソ連大統領を辞任、党の中央委員会を解散させ実質的にソ連共産党は解散となった
(この「ソビエト連邦構成共和国離脱法」を根拠にしてチェチェン紛争が始まるわけですが)

因みに、このクーデターの間にバルト三国は独立宣言を行い、
クーデター後にロシアに独立承認された。

ソ連は「新連邦条約」よりもさらにゆるい繋がりとして「独立国家共同体(CIS)」へと変化して
連邦は消滅した。



次回は崩壊後のウクライナと現在のウクライナの話です。

おそらく次回でロシアとウクライナは最後の記事になると思います

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