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2014年4月13日日曜日

ロシアとウクライナ:帝政ロシア編 ~食料は売り捨てるものだ~

さて、1700年代、ウクライナは帝政ロシアに吸収された訳ですが

この頃のウクライナは自治権すら無いので、特に外国や外交がどうのなどという要素は有りませんが
この頃のウクライナでの生活と、その流れを追っていきましょう




1721年に誕生した帝政ロシアはウクライナを支配し、
ウクライナ人を「小ロシア人」としてロシアの一部として認識し、民族的な分類もそのようになされ、
ウクライナ語を「小ロシア語」と名づけました。

実際同じ民族かといえば、ウクライナはコサックを由来とする
遊牧と略奪と農業と漁業をする人達ですから、かなり違うものと思われます
(この頃の略奪活動はよくあることです)

実際にウクライナ・コサックの自治権が廃止されるのは1783年になります。
その後農奴制が敷かれるのですが、この農奴制というのが酷いものでした。

今回は、この農奴制を中心に書いていくとしましょう


そもそも、農奴制というのは「本来」
古代奴隷制よりも自由な権利を持つ「はず」の農民で、

世界中の何処の国にも居た「土地を持たない農民」の形態の一つ。
農奴は個人の財産と婚姻の権利があるのですが、

土地の移動に関する権利を持たず、「土地に縛り付けられた」存在です。
土地保有者の「土地」に付属する資産だったわけですが、
これはあくまで「中世の農奴」
西ヨーロッパでは時代が下って行くにつれて姿を消していきました…が


東ヨーロッパでは事情が違ったのです。
特にロシアにおいては

中世ロシアにおいては「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていました。
しかし、領主に対して負債がある農民は移動の権利が行使できなかったので、
多数の農民が土地に拘束されていたそうです。

しかし、この頃は負債さえ返せば領主に移動を制限する権利は無く、
領主に与えられる逃亡農民の捜索権と身柄引渡請求権は一年間のみ有効と定められている上、

南の「ドン・コサック」に逃げ込めば身柄を引き渡されることもなかったそうです
(この頃もロシアは東コサックの軍事力をアテにしていたため、
習慣法を理由に「身柄引き渡しには応じない」と言われれば引き下がる他無かった)

1600年代には逃亡農民捜索権・身柄引渡請求権の機関が無期限に延長され、
逃亡農民をかくまった場合多額の罰金が定められましたが
帝政ロシアの時代に比べればまだまだマシです




その後、帝政ロシアが誕生すると、
「人頭税」が設定されました

「人頭税」は国民一人につき一定額課すもので、
その額には納税能力など一切関係なく、どのような収入があっても一定額でした

このような税金を課した理由は、単純に「軍事費」でした
北方大戦争を終えて列強の一つとなったロシアの軍事費を確保するために人頭税が始まったのです
人頭税の徴収は軍隊の農村配備によって配置された部隊によって行われました。
自分達の飯の種ですから、徴収も見逃しがない様きっちり行われました



さらに時代が下ってエカチェリーナ2世が即位すると、更に悪化していきます

エカチェリーナ2世は貴族に支持されてクーデターを起こした結果即位したので、
政策も(皇帝から引きずり降ろされないためにも)貴族優遇にせざるを得ませんでした
(本人は逆に農奴制を緩和することを提案しているが、貴族の猛反対にあっている)

その頃英国では産業革命が発生しており、
農民の都市への流出とそれに伴う食糧生産量の低下によって食料を輸入せざるを得ませんでした
そのためエカチェリーナ2世は英露通商条約を結び、輸出関税を引き下げ、
イギリスに対して食料の輸出を始めたのでした。

領主たちは西欧に食料を輸出すれば儲かる事に気づき、
農奴に対する搾取をさらに加速させていきました

いつ認められるようになったのかは分かりませんが、
農奴はついに土地とは別の「資産」として扱えるようになり「土地に拘束された農民」という定義すら崩壊してしまいました
当時の新聞には
「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などという広告が掲載され
古代奴隷制と変わらない農奴市場が誕生していたことが伺えます

農奴はあくまで「移動と職業選択の自由がない農民」であって、土地ごと売買されることはあっても
農奴だけで売買されることは無かった。

農奴が土地、家畜、建物と同列の「資産」となったため、
農奴の主は土地を所有する封建領主だけだったはずが、「主人」という形に変わっていきました

当然、家族と引き離して売買することも出来れば
主人に不服申立てもすることは出来ない。
その上、主人には気に入らない農奴を「シベリア送り」にすることも認められた

家族と引き離されてシベリア送りにされた農奴たちに「家族でシベリアに送られたならば、主人の元で生活するよりどれだけ幸福であったか」と言わしめるほどこの頃の農奴の扱いはひどかった
(御存知の通り、シベリアは西ロシアに比べて農業もまともにできない上、冬には-40度になることなど当然で、そもそも帝政ロシア期は人がほぼ居ないため当然未開拓である)

逆に、貴族はどうかと言えば「ロシアで唯一の自由な身分」とされており、
租税、軍務を免除され、裁判は同僚のみによって裁かれ、
彼らを有罪とするには皇帝の許可が必要位という。分かりやすい特権階級であった

身分階級が「貴族」と「(農奴を含む)それ以外」などという有り様である。

エカチェリーナ2世の権力基盤が貴族からの支持であり、それを裏切れるほど強固なものではないため
ほぼ本人の意志に関係なく取り巻きの貴族によって政策が決められている有り様だった


更に時代が下り、
1850年辺りになると流石に農奴制も改善の兆しが見えてきた。


1825年にデカプリストの乱が発生。
これはナポレオン戦争でフランスなどへ行った兵士たちが
自国の悲惨な生活と比較して、自由主義と人権が唱えられる西欧との違いに衝撃を受けた事が発端とされ、
専制政治と農奴制の廃止、立憲代議制への意向を目的に反乱を起こしたが、
一日で鎮圧されるも後の二月革命などに影響を与えた

1861年、アレクサンドル2世が農奴解放令を発布したものの、
農地は無償で分与されるのではなく、
政府が規定する価格で、農民が負債を背負った上で地主から土地を購入しなければならなかった。
(これらの負債は1907年に支払い義務が停止した)

法的には農奴制は廃止されたが、負債と土地などの財産割り当てを理由として
農民の生活はかえって苦しくなったため暴動が各地で発生した。


そして一次大戦に入った後、「二月革命」が起きる。
(のですが、その前にクリミア戦争をやらなければ・・・)






かなりすっ飛ばし気味な上「本当にこの記事必要なのか?」といった感じなんですが、
ソビエトの生まれる原因としてよく挙げられますし、
ウクライナに関してはソビエトになってからも…

ロシア革命の前にクリミア戦争周りを書かねばなりますまい

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