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2014年4月29日火曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエトと冷戦の終わり「茶番をしたら壁が壊れた」

ある意味見えない敵、予算との戦い


1980年代、
長く続いた冷戦は兵器開発競争に伴う軍事予算、国家財政との戦いでもありました。

兵器における電子機器の重要性が増していくと、
電子機器の開発能力が開発費と性能を左右するようになりました。

経済力が次第に増大する米国をはじめとする西側諸国は、
民生技術を背景に高い電子機器の開発能力を持ち、
民生技術の応用も数多く行われたため開発費も抑えられました。

それに対し、経済力の伸びが悪いソヴィエトを中心とする東側諸国は、
共産主義国家であるが故に民生技術も無く、
特に電子機器の開発能力に関しては貧弱と言わざるを得ず、
多額の開発費を投じても米国に一段劣る物しか開発できない有り様でした
(例 1970年代から1990年代にかけての戦闘機のレーダーやミサイルシーカー
その代わり機動性はソ連・ロシア製の方が高く、格闘戦においては有利)

その上、ソ連の想定以上に長引き泥沼化してしまったアフガニスタン侵攻の戦費が嵩み、
更に財政を圧迫していきました


ペレストロイカ、グラスノスチと汎ヨーロッパ・ピクニック


1985年、共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは
ソ連型社会主義を部分的に民主化、自由化する「ペレストロイカ」を実行。

それまで全て秘密とされた中央委員会(日本で言う国会に相当)の会議をテレビで中継する等
共産党内部の情報公開が進められた。

1986年にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退を表明。


更に、ソ連が東側諸国に対する政治圧力を放棄したことを表明し
それまでソ連を恐れソ連に従ってきた東側諸国はソ連の支配から脱し、
ポーランドでは1989年が民主化。複数政党による自由選挙が開かれ、
複数政党制に移行しポーランドの一党独裁制は終了した

また、ハンガリーも民主化を進め、
オーストリアとの国境封鎖を解除。
西側であるオーストリアとの間を行き来できるようになった。

一方、東ドイツは大戦から長きにわたって分断国家で、
社会主義、共産主義、監視社会に嫌気が差した数多くの人達が西ドイツへの脱出を試みてきた。
特に「ベルリンの壁」を越えようとした人々の話は有名である

当時、東ドイツにおいて旅行は許可制で、許可が出れば西側に行く事も出来たが、
実際の所許可が出るわけもなかった。

しかし、東側諸国に対する旅行は許可が出やすいため、
未だ「東側」と認識されているハンガリーに旅行に行くと許可をもらい、
そのまま不法出国してしまえば西ドイツに行けるのではないかと考えた。

実際はハンガリー人しか出国できなかったが。



その頃、東ドイツは分断国家であるがゆえ、国家の存在意義が「社会主義」以外無い訳で、
その社会主義さえ無くなってしまえば国家の存在自体が危うい状態だった

周辺国家がソ連のお墨付きの元、改革を進め次々と民主化していく中で
東ドイツはソ連の書籍すら輸入を禁止するような逆行状態であった

当然、東ドイツの首脳陣はこの国境開放に激怒したそうだが、
ソ連のお墨付きが出ているため目立った抗議は出来なかった。


しかし、ハンガリーで民主化を求める勢力や
政府の民主化改革派は多少強引な手段を使ってでも東ドイツ市民を越境させてしまおうと考えた。

表向き「集会兼お祭り」として企画された「ヨーロッパの将来を考える会」は
その実、西ドイツやオーストリアの外交官、ハンガリーの国境警備隊、入国管理局まで巻き込んだ盛大かつ大きな政治的メッセージを持った茶番であった。



「ヨーロッパの将来を考える会」は1989年8月19日に実行された。

その日、国境警備隊は「なぜか」検問所付近には居なかったし、
なぜか」検問所の係員が何時もより少なかった。

オーストリア、ハンガリー国境の検問所が破壊され、東ドイツ市民を満載したバスが次々に到着し、
国境のゲートを東ドイツ市民が走り抜ける中、

検問所の係員は不法出国が行われているゲートに背を向け、
オーストリア人のパスポートを一人10分以上かけて入念にチェックしていた。

ゲートを走り抜けた東ドイツ市民は、「なぜか」そこに居合わせた西ドイツの外交官から西ドイツのパスポートを受け取り、
なぜか」オーストリア側にあったバスに乗って西ドイツに向かった。

ゲートを走り抜ける東ドイツ市民
この事件は、「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれている。
どうも、彼らはピクニックをしていたら「なぜか」「間違えて」国境を超えたらしい。

全く持って盛大な茶番である

ソ連は当然この事件に関して見て見ぬふりをして、全く干渉しなかった

この様子は西ドイツ(西ベルリン)でテレビ放送されたため、一部の東ドイツ市民は当然見ることが出来た。
当然西ドイツの放送を受信することは禁止されていたが、
監視を逃れてほぼ全国民が見ていた。

東ドイツ政府は当然ハンガリーに激しく抗議し、
東ドイツ市民を強制送還するよう求めたが、ハンガリーは応じるわけもなく
正に後の祭りだった

この後もハンガリーからオーストリアへの東ドイツ市民の出国は止まらなかった。


10月になると東ドイツ政府はハンガリーへ行く際に必ず通らなくてはならないチェコスロバキアとの国境を封鎖。

数万人規模のデモが発生し、東ドイツ市民の不満は体制批判へと変わっていく。


周辺国が次々と民主化、またはその動きがある中、
社会主義を続けなければ国が消滅する東ドイツ政府の最後の頼みの綱は
ソ連の支持を得ることだったが、
ゴルバチョフが東ドイツを訪れた際、演説の内容や態度から東ドイツ政府を支持していないのは明らかであった。

この頃のソ連は社会主義を捨てるように諸外国に圧力をかけていたと言っても過言ではない状態になっていた



失言と勘違いで壁が無くなった


1989年11月
デモが拡大を続け、東ベルリンで100万人規模のデモが発生。

東ベルリンでのデモ(1989年11月4日)


なんとかこれを抑えるために新たな旅行法案を作るものの、
人民議会は旅行に国の許可を要するこの法案を否決。

デモの拡大、ストライキの広範囲発生。
党の中央委員会は罵声大会と化し、議会として成立していない有り様だった

9日、新たな旅行法案は党の権限によって政府政令として審議するため発表された。
但しこれが党の外部に発表されるのは翌日の10日の予定だった


その日、党の記者会見が行われたが、
会見を行ったのは中央委員会に参加せず旅行法案に関して知らない党員だった。
会見の前に資料として旅行法案の書類を渡されたが、中身をよく把握していなかったらしい。

国民の大量出国問題に関して、「我々はもう少々手を打った。
ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」

「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、全ての国境通過点から出国が認められる」と発言。
その後、発効日を尋ねられた際、「直ちに、遅滞なく」と発言。

実際にベルリンの壁を超えるには許可証が必要だったが、それに関して記者会見では何も言われなかった。

この会見をテレビで見ていた市民は半信半疑にベルリンの壁に集まった。

国境警備隊は10日に内容を知らされる予定であったため、
会見を見ていない警備隊と市民の間でいざこざが起きた。

ゲートに詰めかける市民


会見の3時間後には6つの検問所にそれぞれ数万人にもなる市民が詰めかけ、
武力鎮圧も出来ない状態になり最後には警備隊の独断でゲートを開放。
国境警備隊に撤収命令が下された。

日付が変わると市民がハンマーを持ち出してきて壁を叩き始めた。
更に数日後には東ドイツ政府によって壁の撤去が始まる。



冷戦の象徴は失言と勘違いと茶番と、わずか数時間で崩壊したのであった。






またウクライナとは関係ない内容なのですが、
ソビエト崩壊を語る時には必要な話なので…
次回はソ連崩壊前後のウクライナの話に・・・なるのかなあ?
東欧革命周りはまだ説明が必要かも。

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