このブログは記事の区切りがつく度投稿しているので、最初から読む場合は投稿日順

つまり古い順に読むことをおすすめします


左にあるラベル毎に続き物の話をまとめています

ラベル 黒海とクリミア・ウクライナ情勢 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 黒海とクリミア・ウクライナ情勢 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年4月14日月曜日

ロシアとウクライナ:クリミアの正当な統治者は誰?

さて、今ウクライナで一番アツいスポットであるクリミアですが、
所有者?というか統治する国家やらなんやらが結構入れ替わってます


10世紀頃、それまでの遊牧民族に変わりクリミアを支配していたのはキエフ大公国と黒海を挟んだ南にあるビザンチン帝国でクリミアを南北に分割していました

1025年のビザンチン帝国



モンゴルのルーシ侵攻によってキエフ大公国はモンゴル帝国が支配することとなり、
クリミアの支配権はモンゴル帝国から分割されたジョチ・ウルスと、
ビザンチン帝国の領域はジェノヴァとヴェネツィアが持って行きました
ジェノヴァの勢力図。右にクリミア半島と黒海があり、
イタリア半島の付け根にジェノヴァ本国がある
アドリア海に進出できていないのはもちろんヴェネツィアの領域だから。

14世紀末、ロシア(モスクワ大公国)の勢力が伸びるに連れてジョチ・ウルスは衰退
ジョチ・ウルスのうち、クリミアに居た部族も「クリミア・ハン」を興します

「ジョチ・ウルス」と「クリミア・ハン」の主要民族は「クリミア・タタール人」で、21世紀の今もクリミア人口の10%以上を占めます
タタールの人々は元々モンゴルから現在のカザフスタン辺りから移住してきた人達です

15世紀中頃のクリミア
北の白い部分が「クリミア・ハン」 ピンクが「ジェノヴァ」
緑色は「クリミアゴート族」
クリミア・ハン国はクリミアの全て、つまりジェノヴァの交易都市を抑えることは出来ませんでしたが
その後発生したハン国の内紛においてハン国はオスマン帝国に援軍を要請したため

ジェノヴァの交易都市はオスマン帝国によって攻め落とされ、ジェノヴァが持っていた都市と領域は
オスマン帝国の直轄領となり、クリミア・ハン国は援軍を得た代償としてオスマン帝国の属国となりました
しかしながら、限定外交権を持つ程高度な自治権が認められており、自主的な統治を行った

1600年頃の黒海周辺
現在のウクライナはクリミア・ハンとポーランドとモスクワ大公国に分割されている
オスマン帝国による欧州侵攻作戦が始まる1683年、
オスマン帝国はウィーン包囲を長引かせ、神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国、ロシア・ツァーリ国の4カ国による神聖同盟が誕生し、
4カ国でオスマン帝国に対向することとなり、「大トルコ戦争」が勃発。

ロシアは対オスマン戦を優位に進めて1700年、コンスタンティノープル条約
によって400年以上続けられたクリミア・ハン国はロシアへの貢納の取り立てを禁止された。
(この頃は属国クリミアハンのほうが立場は大きかったのに80年後のオスマンときたら…)

ロシアは帝政となり、更に南下政策を加速させていきます
狙うはもちろん黒海沿いの港町、できればクリミア半島のセヴァストポリが欲しい。


その後第一次露土戦争(1768-1774)でオスマン帝国はクリミア・ハン国の宗主国権を停止し、
名目上独立国とする「キュチュク・カイナルジ条約」によってクリミア・ハン国はロシアの影響下に入り、
1783年、オスマンを軍事的な脅威と捉えなくなったロシアは条約を一方的に破棄してクリミア・ハン国を併合。
(ロシア=露西亜 トルコ=土耳古 で露土戦争)

ロシアは獲得したクリミア半島のセヴァストポリに海軍艦隊と母港を置く事を決め、
クリミア半島には海軍関連のロシア人が大勢集まる原因になった

この後、第二次露土戦争(1787-1791)
第三次露土戦争(1806-1812)
第四次露土戦争(1828-1829)の全てにおいて帝政ロシアは勝利した。

クリミア戦争(1853-1856)で(フランスとイギリスと同盟して)ようやくオスマン帝国はロシアに対して勝利するも、
決定的な勝利では無かったためクリミアはロシア領のままになり、黒海の非武装化、ドナウ川河口周辺の領土の割譲という結果に終わった。
その上、その後の条約改正で非武装化はナシになった。

クリミア戦争の図。クリミア半島全土を占領していればオスマンはクリミアを取り返せたかも知れないが
補給線と戦費的に不可能だと思われる



また、クリミア戦争ではその名前の通りクリミアにイギリス・フランス・オスマン軍が上陸して戦場となり、
ロシア黒海艦隊の母港であるセヴァストポリで包囲戦が行われた。

また、この戦争によって一部のクリミア・タタール人はクリミアから逃げてしまい、
多くはオスマン帝国に移住した。

(割とどうでもいいことだが、ロシアとトルコの戦争は1568年から11回程発生しており、
第一次露土戦争は「帝政ロシアとトルコの戦い」として最初のものである)



現在のクリミアの民族と言語とか

この後、クリミア自治ソビエト社会主義共和国の誕生とか
独ソ戦でのドイツのクリミア上陸とかあるんですけど省略しまして、
クリミアとウクライナの民族の分布とかを見て行きましょう

まずはウクライナにおいてウクライナ語を母国語としする人たちの割合の図なんですが
ウクライナ全土の図 色が濃いほどウクライナ語が母語の人が多い
クリミア半島を見てみると真っ白なんですよね、2割下回ってる。

逆に、ロシア語はというと
ウクライナからロシアとの国境沿いにかけてかなり濃くなっています
(ウクライナ語のものと割合と色の関係が違うことに注意)
この図で色が濃い地域と現在独立運動が発生している地域はだいたい一致します


クリミアの人口の58%はロシアに帰属意識を持つロシア人で、
次にウクライナ24%、クリミア・タタール人が12%と続きます

これは、クリミアが帝政ロシアの支配下になってから長年貴重な不凍港として、
黒海艦隊の母港として重要視されてきた結果だと思われます

また、最近色々と問題になっている理由としては、1992年のクリミア州議会による独立宣言が妨害されたこと、
ソビエトの誕生によって東ウクライナの民族問題が90年以上先送りされたことが上げられるでしょう

逆に言えば、二月革命後にソビエトロシアがウクライナに来なけりゃ
二次大戦前には東ウクライナの国境線は何かしらの動きがあったと思われます


まあ、その辺りの詳しい話は次回、「帝政ロシアの終わり ロシア革命から内戦へ」で解説しましょう


(そもそもクリミアがウクライナであると主張できる要素があまり考えられないんですよねえ
タタール人はその前から居たから当然として、
コサックやヘーチマン国家、ルーシ人を由来とするウクライナ民族がクリミアを支配したこと無いし、
そもそも二月革命まで国家なき民族だったし)


Monacoin:MJnb1JP4sAtbBKGwDXi1ZzLBAoh7cCQmy5

2014年4月11日金曜日

ロシアとウクライナ:列強の都合で消えたり現れたりする国家

さて、前回対戦車戦闘の話をするといったな
申し訳ない。アレは嘘だ



かなり評判と需要がありそうなので「ロシアとウクライナの歴史」でも書いてみようかと思います
(ただし、記事を書き終えた今更ながら、この記事は現在起こっている問題とあまり関係が内容にも思えます)

さて、8世紀頃のロシアとウクライナにおいては、「ルーシ」と呼ばれる国家があり、
これが今のウクライナの首都、キエフを首都とした国家を形成していました

「ルーシ」から「ロシア」という名前が付けられたと言われています。

10世紀にはルーシは国家の名前から国家集合体の名前に変わり、キエフ大公国とその周辺の小国家によって構成されるようになり、
後にロシアの基礎となるモスクワ大公国もその小国家の一つでした。
12世紀、モンゴル帝国のロシア侵攻によってルーシの国家は全てモンゴル帝国の支配下に組み込まれました。

そして、モスクワ大公国はモンゴル帝国の力を利用して勢力を拡大、ロシア・ツァーリ国に移行します。

時は15世紀、この頃キエフ公国(というか現在のウクライナ)は既にリトアニア、ポーランド、ロシア、クリミアによって分割されており、
今のウクライナの正当な先祖となる国家は存在しませんでした
(この場合のクリミアはクリミア・ハン国であってモンゴル帝国分割の結果発生したジョチ・ウルスが崩壊して残った国家の一つ)
1600年頃 クリミア・ハン国を中心としたクリミア周辺図
南にオスマン帝国、北東にモスクワ大公国(ロシア)
北西がポーランドとなっており、何処にもウクライナに相当する国家は無い

15世紀。ポーランドとリトアニアは連合国家となり、「ポーランド・リトアニア共和国」となり
今のウクライナに中る地域は「ポーランド・ウクライナ」と「帝政ロシア」の2つに分割されました
(あと、クリミア・ハン国)

そんな中、ウクライナ中等部で「コサック」という軍事集団が誕生。
これら「コサック」は欧州諸国の没落貴族と遊牧民と盗賊によって構成されていました。

コサックは2つに分けられ、西のポーランド・リトアニア寄りのドニエプル川を中心とする「ザポロージャ・コサック」
ウクライナの大半を占め、中心都市キエフも抱えているので、
こちらがウクライナの正当な先祖といえるでしょう

もう一つは東のドン川を中心とする「ドン・コサック」
ロシアのコサックというのはこちらで、その勢力圏は現在のロシア連邦と東ウクライナに含まれています

西のザポロージャ・コサックは西欧へ傭兵として赴き、
東のドン・コサックはクリミア・ハン国とオスマン帝国との争いを繰り広げるうちに強力になっていき
ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国から正式な軍事組織として認められるようになりました。

これはコサックの軍事力をアテにし、有事の際は軍に編入することを条件に
コサック独自の勢力圏を認めるということで、
実質的に自治権に近いものを認めたと考えられます

しかしながら、ロシアもポーランド・リトアニアも軍事力を当てにする割には
コサックの自治権の縮小とコサックの領地の没収による自国領拡大を続けていき、
これに対する反乱が多数発生していました

ザポロージャ・コサックの反乱は次第に独立運動へと変化していき、
1649年頃、ポーランド・リトアニアへの反乱が成功し外交権を得て実質的な独立。
「ヘーチマン国家」と呼ばれる国家が誕生します。
ヘーチマン国家の勢力圏
見事にドニエプル川に沿っている。
黒海沿いからクリミア半島にかけては「クリミア・ハン国」の領域

この時の反乱の際、ポーランド・リトアニアと敵対していたロシアやオスマン帝国に支援を申し出た事が
長きに渡るモスクワのウクライナ支配の始まりだとも言われています


一方東のドン・コサックはロシアへの反乱に失敗。
自治権は無くなり、ドン・コサックの領地は全てロシア領となってしまいました
(現在独立編入運動が発生しているルガンスクはこの際ロシアに編入)


「ヘーチマン国家」は軍事的、政治的に完全な独立は難しかったため、
オスマンやロシアに保護を求め、ポーランドとの戦争でロシアとともに戦ったヘーチマンであったが、初代指導者の死後ドニエプル川を挟んで勢力が分裂、

ロシア・ポーランド戦争は主に現在のウクライナを戦場にして戦ったため、
国土は荒廃し、ヘーチマン国家は衰退していった

1667年、アンドルソヴォ条約によってロシア・ポーランド戦争は終結。
ヘーチマン国家の処遇に関しては「ドニプエル川から西はポーランドに、東はロシアに」という結果となり、
この時、実質的にヘーチマン国家は滅亡。
ロシアが獲得した、所謂「左岸ウクライナ」
現在の首都キエフも含まれる

先祖どうこう言ってましたが、形式的にもヘーチマン国家を継承しているわけではないんですよね


次回は、ついに帝政ロシアの登場。
食料の圧倒的搾取と産業革命に伴う飢餓輸出までをやろうかなと思います



Monacoin:MJnb1JP4sAtbBKGwDXi1ZzLBAoh7cCQmy5

2014年3月5日水曜日

ソビエト・ロシア海軍の苦悩 「あの海峡を超えよ」

さて、イスタンブールというか、ボスポラス海峡によって黒海から出る自由がない
ロシア帝国軍黒海艦隊。

最も、バルト海の主として周辺国に恐れられ、当時世界最強の海軍を保有していたイギリスですら
警戒していたバルチック艦隊が極東まで行ってボコボコにされ、
完敗に近い状態で終了し、艦隊壊滅という状態になったため、
ロシア海軍の士気はガタ落ち、戦艦も海軍総数の半数近くを失うという事態になってしまい
帝政ロシア海軍主力艦隊には中々動けない黒海に戦艦を置いておくよりはバルト海に配備していたというのもあり、
そもそも動かす艦船があまり残ってなったのですけれども。


オスマン帝国も一次大戦の講和条約によって国家全体が解体され、
国家主権を失い、連合国によって分割占領されオスマン帝国が解体されました

その後、(調子に乗った元連合国の)ギリシャがトルコ国内に侵攻し
トルコの国民を中心とした武装抵抗運動が発生し、それが更に組織立った抵抗になり
アンカラ政府が誕生、ギリシャと交戦状態に入ることによって希土戦争が発生、
この戦争にトルコは勝利し、1923年、現在のトルコ共和国が成立します。

トルコ共和国が成立したことによって現在のトルコの国土のほぼすべてが連合国から返還され、
国家主権を回復した…のですが
商船から通行税を取ることを禁じられた上、ボスポラス海峡での海峡地帯での非武装、
つまりロシア軍、もといソ連海軍艦艇を無条件で通すように要求されたのです

普通に考えて、ロシアに対するボスポラスという場所の優位と通行税は大きな利点となるはずで
そんな要求認められるわけ無いのですが
国力も低下し軍事的にも疲弊していた当時のトルコには認めざるを得ませんでした

当然、トルコはこの条約を不服に思い1936年、改正を要求。
この結果、新たな条約、「モントルー条約」が誕生します

これは、ボスポラス海峡における商船の通過を無条件に認める反面、
軍艦の通過を制限するものでした

「航空機の海峡上空の通過制限」
「20.3cm以上の砲を搭載した軍艦は通過できない」
「主力艦は同時に1隻まで、護衛は2隻まで」
「航空母艦の通過禁止」
「その他の軍艦は同時に10隻、総排水量1万5000トンまでしか通過できない」など

20.3cm以上のーに関しては
ワシントン海軍軍縮条約で20.3cm以上の砲を搭載した艦船を戦艦と規定したため、
実質戦艦の通過禁止です。
最も、日露戦争でボコボコにされ海軍自体が弱体化した挙句、
ロシア革命後は陸軍に偏った拡張を続け、
大戦中は爆撃魔王に沈められたり海軍に予算が降りなかったりで
結局、大戦後になるまで録に戦艦を作れなかったんですけども。

戦前のソビエトには空母は居ませんから、この場合の主力艦とは何を示すのでしょうか
大日本帝国海軍では空母と戦艦が主力艦とされています。

方や海軍国、方や陸軍国ですから、考え方が違うのかもしれませんけど

また、「航空母艦の通過禁止」に関してもちょっと変な点があります
戦前のソ連は空母を持っていませんが、
戦後のソ連と、現在のロシア海軍は空母「アドミラル・クズネツォフ」を持っていますし、
就役当初は黒海艦隊で運用していました
何故黒海から出れないのに黒海に配備していたのか。

いえ、出れるんです。何故なら「アドミラル・クズネツォフ」は空母ではないから
空母ではないらしい「アドミラル・クズネツォフ」

「あれは、キエフ級巡洋艦の方針を受け継いだ『重航空巡洋艦』だ」と言い張ったのです
なんだかんだあってアメリカもトルコもこの主張を認めてしまいます
『重航空巡洋艦』キエフ級
以前にキエフ級が登場した際、アメリカやトルコは非難していましたが
「アレは対艦ミサイルを積んでいるかられっきとした巡洋艦だ」という感じで押し通され、
既成事実を作り上げてしまいます。
「アドミラル・クズネツォフ」の時はそもそも非難すらしませんでした。
「アドミラル・クズネツォフ」にも対艦ミサイルが搭載されていましたから。

因みに、キエフ級巡洋艦「アドミラル・ゴルシコフ」は現在ロシアからインドに売却され、
「ヴィクラマーディティヤ」という名前を与えられ、空母に改装されています

インド空母「ヴィクラマーディティヤ」
今は対艦ミサイルを積んでいないので、確かに巡洋艦ではないのかもしれません



今回はここまで。なんか終りが見えないし結論を付けれる気がしなくなってきた
というかクリミア半島の話は何処行ったのやら
クリミアの戦略的重要性は黒海とロシア海軍、ソ連海軍を語らずには理解できないけども、
ここまで伸びるとは思わなんだ

まあいいや、次回は未定!


0.1Monaでもいいので寄付していただけると、記事を書き続ける原動力になります
寄付:MSmPH9ptv8Vp8N3JMjFCgQ25ucXv3xKTAo

2014年3月4日火曜日

ロシアは何故軍事行動までしてウクライナに構うのか?

ウクライナが話題なので、これをお題に記事を書いてみましょう。

現在、ウクライナでロシア軍が軍事行動の準備をしていますが、これは何故なのか。
これを語るためにはウクライナとロシアの歴史から語らねばなりません


ロシアは、ロシア=ツァーリ国、つまり1500年頃から不凍港が欲しかったのです。
港があれば交易のための輸送力も上がり、輸送のためのコストも落ちます。

18世紀中頃には港の必要性が更に上がり始めます
産業革命が始まることによって農業に従事する人の数が減ったために
西ヨーロッパでの食糧生産量が減少。
西ヨーロッパはロシアを含む東ヨーロッパから食料を輸入しなければならなくなりました

当時大規模な農奴制を実施していたロシア帝国は農奴への扱いを更に厳しくして食料を輸出
農奴制とは何だったのか、最早ただの奴隷と変わらない扱いがなされ、
当時の新聞には
裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などという広告が掲載され、
土地に紐付けされることが前提のはずの農奴が土地から開放されることによってただの奴隷と化していました
「貴族の天国、農民の地獄」とはよく言うもんで、
フランスで革命が行われ人権宣言等が誕生する一方で、
その裏側では奴隷制を強化して貴族が食料を搾取し、輸出してロシアで農民が餓死するという有り様。
皮肉なもんです


まあ、その辺の理由でロシアは不凍港が欲しいわけですが、
ロシアの海岸線のほとんどは北極圏なので流氷が漂っています
かつて、北極海が海だと分からなかった頃に様々な国の人々が北極海に挑んでは死んでいきました
これは、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易路は香辛料取引を中心に儲かるルートだったからですが、
喜望峰を通るルートは、長距離航路の補給拠点をポルトガルとスペインが抑えており、
オランダやポルトガルに税金だの利用料だのを払い、
割高な補給物資を買わされていました。

大西洋からメキシコ経由の太平洋回りは遠洋航海の技術が未発達で、確実性に乏しい上、
当時の船や補給能力ではあまりに距離が長すぎました

陸路、つまりシルクロードはイスラム世界、今の中東を通る必要があり、現地の国が交易路を抑えていて、関税をやたら取るので儲けに乏しい。

逆に、これらを回避するルートを開発すれば大儲けが期待できるわけです。
この点にロシア含めイギリス等の国も興味を持ち、北極海探検を始めたわけです

当時は「夏なら白夜によって常に太陽光が当たり、流氷は溶けるのではないか」と思われていたようですが
小氷期というのもあって、夏でも流氷が浮いています。
結局、ロシア北方北極海周り航路は失敗に終わりました。

小氷期が終わったとされる現代でも減少しているものの、北極海には多くの流氷があり
普通の商船で通過することは出来ません
(原子力)商用砕氷船だの一部の軍艦だのは通過できますけど。

そして、17世紀に入ると商人ではなく当時、武装組織兼民族集団と化していたコサックが
シベリアへ、東シベリアの探索を開始します
どうも毛皮が目的だったようで毛皮が取れなくなって無人地帯への移動をしたようです

18世紀も中頃、清から得たウラジオストクに入植されて、ようやく国内に使える港が出来たかと思えば
そこは太平洋もとい日本海、アジアへの入り口でした。
そもそも西ヨーロッパ
因みに、陸路での中国への交易ルートがこれによって完成したため、それによる儲けは結構あったそうな


と、いうことで北極海には港が作れませんでした。


例外として、暖流によって冬でも凍らないムルマンスクのみが北極海に面する大規模な不凍港となりました。
しかし、ムルマンスクは西ヨーロッパに対して遠すぎる。
なんせスカンジナヴィア半島を回ってこなければならないのですから。
利点があるとすれば、他国に影響されずに大西洋に出れるところでしょうか。

ではそのたの不凍港、西ヨーロッパに近いバルト海側はどうだったのか。
サンクトペテルブルグは1700年頃までスウェーデン領で、
その後、港湾都市として、帝政ロシアの首都としてサンクトペテルブルグが建設されました。

しかし、バルト海を利用するにも幾つか欠点がありました。
敵対するノルウェーやデンマークがバルト海の出口を抑えているため、
海軍は自由に外に出れないし、商船が通過するときも通行税が取られます。

少なくとも、軍事的には不利な位置になります。海軍力を西ヨーロッパに展開するのは
かなり難しいと言わざるを得ません。

だったらロシアのもう一方の海、黒海はどうなのか。
クリミア半島をオスマン帝国から戦争で分捕り、不凍港を確保したのはいいのですが、

はてさてその黒海も外に出るにはオスマン帝国、イスタンブールを通過しなければならない
やっぱり通行税を取られ、海軍は自由には外に出れません。

時は流れて革命により帝国が終了、ソ連が生まれます

ソ連は非常に高い軍事力で周辺国に圧力をかけましたが、
トルコに対しての圧力はかなりのものがありました
しかし、アメリカもそれを見過ごすわけがありません。
軍事援助や弾道ミサイルの配備なども行い、
イスタンブールを挟んで南に米艦隊、北に露艦隊で睨み合いなんてこともありました

結局、モントルー条約によって軍艦の通貨が制限され、
大型の戦艦や航空母艦の通貨も制限されるのですが、それは次回解説しましょう



0.1Monaでもいいので寄付していただけると、記事を書き続ける原動力になります
寄付:MSmPH9ptv8Vp8N3JMjFCgQ25ucXv3xKTAo