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2014年7月15日火曜日

小ネタ:戦車/装甲車/自走砲



久々の更新ですが小ネタです
イスラエル周りがまた温まってきたのであの辺りで何か書こうとも思ったのですが、
何故イスラエルの存在が問題なのか
なんて話を書いてたらウクライナより長くなります。事は紀元前から始まりますからね

今回は1回きりで済む小ネタです。




さて、「戦車」というのは何でしょうか?
「戦う車」と言う人も居ます
文字通りの意味ですし、広義の意味では合っています。
しかし、その範囲では全然違う特性の兵器も全てひっくるめて「戦車」になってしまいます

それこそ、馬車たる戦車「チャリオット」から
日本製の信頼性が生み出した民兵用移動機関銃座「テクニカル」、
ヘタしたら自転車に機関銃を固定するだけで「戦車」に含まれることになります

アフガニスタンの軍事警備会社が使用している「トヨタ・ハイラックス」テクニカル
テクニカルとはこのように、トラックの荷台に機関銃等を固定したものである

チャドでの内戦、「トヨタ戦争」で使われた「トヨタ・ランドクルーザー」
双方の勢力がトヨタの車両を用いた所から「Toyota War」と呼ばれるようになった


復元された「馬車たる戦車」 チャリオット
チャリ(オット)で来た。



二次大戦の一般的な戦車 M4シャーマン


実のところ、戦車の定義は時代によって異なり、曖昧です。

古代の馬車たるチャリオットは別として、

歴史の教科書にも出てくる一次大戦に登場した世界初の菱型戦車「マークI」の頃は、
戦う自動車なんて他に居なかったので「戦う車」こそ戦車でした
世界初の戦車 マークI

一次大戦中にも戦車は進化していき、様々な用途が生まれました。
二次大戦には歩兵や戦車と戦う軽戦車、中戦車、重戦車などの分類だけでなく、
戦車と名のつくものは駆逐戦車、騎兵戦車、巡航戦車、歩兵戦車、偵察戦車、指揮戦車、火炎放射戦車、対空戦車、架橋戦車、回収戦車などが生まれ

我らが九七式中戦車「チハ」
対歩兵戦闘を想定して作られているため対戦車戦闘にはめっぽう弱い
しかし、当時の日本陸軍のドクトリンではそれで十分だった
ドイツ軍の重戦車、Ⅵ号戦車「ティーガーI」
恐らく世界一有名な重戦車。対戦車戦闘では非常に強い

それ以外にも、「戦う車」として自走榴弾砲、自走対空砲、戦車駆逐車、突撃砲、
装甲歩兵輸送車、汎用輸送車、ガントラック、武装ジープ等など、
戦場は様々な種類の自動車が駆け回っていたのです。

この頃の戦車の定義は曖昧でした。
結局この時代の戦車は運用している軍が「これは戦車だ!」と主張すれば戦車なのです。


ユニバーサルキャリア/ブレンガンキャリア
イギリスの汎用輸送車 歩兵や物資、機関銃だけでなく
対戦車砲載せてみたり、迫撃砲載せてみたり、火炎放射器載せたり、
果てには空飛ぶ戦車の実験としてロケット載せたりしている

二次大戦が終わると増えすぎた戦車の仕分けが始まります
火炎放射戦車と駆逐戦車は種別廃止、
偵察戦車、空挺戦車と軽戦車は戦車以外の装甲車に役割が割り当てられ
中戦車と重戦車は種別を統合して「主力戦車」に生まれ変わります。

戦後から現代にかけては戦車とそれ以外の区別が割とはっきりしてきます。

戦車は「主力戦車」に相当する車両のみが戦車と呼ばれるようになり、
その定義はおおまかに
「同世代の戦車の攻撃に耐えられる装甲を持つ事を目標とし、あらゆる地上戦力と交戦可能である」
先ほど書いた内容と意味的には全く変わりませんが、戦後になって例外は大分減り、
分類しやすくなりました。

例えば、「同世代の戦車の攻撃に耐えられる持つ事を目標とし」の部分が欠けていた場合は
「戦車駆逐車」または「装輪戦車」という分類になります。(駆逐戦車とは異なります)

自衛隊の10式戦車
装軌(キャラピラ)で、同世代戦車を撃破するのに十分な火力がある120mm砲を搭載し、
軽量化しつつも同世代戦車と変わらない装甲を実現している。
防衛省が開発中の「機動戦闘車」(MCV)
この種の「装甲薄いけど火力は戦車に近い」
という種類の車両は呼称が決まっておらず、「戦車駆逐車」「とも「装輪戦車」とも言われる
(場合によってはこれを自走砲に分類することも)


現代の戦車は「主力戦車」こそが戦車であって、それ以外は戦車ではありません
では、「それ以外」の「戦う車」とは何なのでしょうか

一番代表的な存在としては自走砲と、装甲歩兵輸送車があるでしょう。





戦後、リストラされた軽戦車は輸送車と統合され、「装甲歩兵輸送車」 APCや「歩兵戦闘車」 IFVへと変化します
米軍のAPC M113
「戦場のタクシー」とも呼ばれ、
この種の車両の運命かのように対空・対洗車ミサイルや迫撃砲、
軽戦車の砲塔を載せられたり色々な改造を受けた
米軍のIFV M2ブラッドレー
戦車に似たスタイルのため戦車と間違われることも

自衛隊のIFV 89式装甲戦闘車
生産数が少ないため戦車より高い車両。
こちらも戦車に間違われる事がある




ソビエトのBMP-1
歩兵を輸送しながら敵のAPCを破壊でき、
対戦車ミサイルを使えば戦車すら撃破できるというIFVのコンセプトは
西側諸国に衝撃を与え、その後先進各国はIFVの開発を急いだ

しかしながら、このAPCとIFVという2つの装甲車の種別は基本的に
「装甲された車内に歩兵を搭載する」という点で被っています。

APCは歩兵を搭載し輸送。歩兵のライフル程度に耐えられる装甲を持ち機関銃を搭載するもの

IFVは歩兵を搭載し、積極的に敵の歩兵や装甲車を攻撃し歩兵を支援するために、
ある程度の機関砲や対戦車兵器に耐えうる装甲を持った物
という性格で分かれており、

一番わかり易いものでは「20mm以下の機関銃を搭載するものがAPC、20mm以上の機関砲を搭載するのがIFV」
という分類が出来上がっています。
20mmというのは炸裂弾が使用可能になる口径であるため、
積極的に歩兵を攻撃するならばそちらのほうが都合がいいためです。

しかし、これだとまだ問題があります
APCやIFVの中には武装が違う派生型が複数ある場合があり、
車体が同じで砲塔が違うものはどう分類すべきかという問題があります

個人的には、(ゲームにおいて、武装で脅威度が大きく変わるので)
20mm以上の機関砲を搭載していればそれは車体が何だろうがIFVだと考えています
BTR-80
KPVT 14.5mm機関銃を搭載しているため
個人的にはAPCに分類




BTR-80A
2A72 30mm機関砲を搭載しているため
個人的にはIFVに分類

(APCとIFVの分類を運用上、戦車に随伴した場合に、
隊形を維持したまま戦闘するか、地形に隠れて戦うかという点で分類する方法もある模様。
多分こっちのが正しいですが、運用まで想定して分類すると色々面倒なのでパス)


また、APC、IFVに近い存在として装甲偵察戦闘車(RCV)なるものが存在します
これらは、APCやIFVを改造して作られる物も多く、また武装にもばらつきがあります

また、偵察車と言いながら実際の運用はかつての軽戦車と同じような歩兵支援を行っていたりします

ドイツ軍の「フェネック」偵察車
隠密偵察型の車両で、武装、装甲も威力偵察型の車両に比べれば貧弱である


自衛隊の87式偵察警戒車
威力偵察型の車両で、対歩兵、非装甲目標との交戦に十分な武装と装甲を備える


英軍のFV107「シミター」
軽戦車的性格が強い車両で、戦車としてみればちっこくてかわいい

もう一つ、自走砲というのはその名の通り「自走する砲」です
そんなこと言ったら戦車も戦車砲が自走するものになってしまいますが
戦車は開発された時から自走するものなので、それに搭載する戦車砲が自走した所で自走砲には含まれません
(実際は戦車砲が自走する「駆逐戦車」「突撃砲」というものもありますが)


自走砲に含まれるのは、本来「自走しない砲が自走するもの」に限られます

自走しない砲と言うのはつまるところ榴弾砲で、これにエンジンとハンドルと、
ライフル程度の攻撃に耐えられる装甲を備えればそれは立派な自走砲です
(自衛隊には装甲なしの自走砲もありますが)

自衛隊の「自走しない榴弾砲」 FH70
自走できないので、普通は画像のようにトラックなどで牽引し移動する

本来なら「自走しない榴弾砲」に分類されるはずが、
FH70にはエンジンが搭載されているため実は自走できる。
しかし、長距離を移動することは出来ず、せいぜい陣地転換に使う程度

自衛隊の203mm自走榴弾砲
でかい、そして装甲がない。近いうちに引退するらしい



自衛隊の99式自走155mm榴弾砲
現代の標準的な自走砲
装甲があり、IFVの車体を流用したものに載せて自走する。
これらの自走榴弾砲は戦車と似ている(軍事に詳しくない人的には)ため、
戦車と間違われる事がありますが、
戦車は先述の通り「敵戦車の攻撃に耐えうる装甲を持つ」
ことが求められるため、装甲が薄い自走榴弾砲は戦車とは異なります。

戦車は最前線で敵を目視し直接照準で射撃するのに対し、
自走榴弾砲はその後方で味方からの観測情報を元に見えないところに対して攻撃するので
攻撃されるリスクは戦車に比べれば少なく、重装甲である意味はあまりないのです


また、自走砲には榴弾砲だけでなく迫撃砲も含まれます

重迫撃砲も榴弾砲に比べれば軽量とはいえ、それでも200kg以上あるので普通は車両で牽引する。
しかし、重迫撃砲も牽引せず車両に搭載することですぐに移動ができるようになっているものもあります


自衛隊の120mmRT迫撃砲
木箱に砲弾が入っており、迫撃砲はこのような車両に牽引されて移動する

自衛隊の96式自走120mm迫撃砲
これも自走砲に含まれる。後ろから突き出ているのが迫撃砲本体である
米軍のM1129「ストライカーMC」
こちらはAPCをベースに迫撃砲を搭載したもの。
迫撃砲も定義上は自走砲とされますが、その運用は自走榴弾砲とは異なり、
前者は砲兵部隊として独立して動きますが、迫撃砲は歩兵部隊によって運用され、
歩兵部隊についていく存在です。



さて、ここまで書いてきた分類をまとめますと、以下のようになります

戦車(主力戦車/MBT)

装甲:同世代の戦車の攻撃に耐えうる。
武装:大口径の戦車砲を装備し、直接標的を見て射撃する
その他:あらゆる地上戦力より強力な装甲と貫通力に優れた主砲、高い機動性を兼ね備える

装甲歩兵輸送車(APC)

装甲:歩兵のライフルによる攻撃に耐えうる
武装:歩兵を攻撃するのに十分な機関銃
その他:歩兵を数名搭載し輸送することが目的 戦闘への参加は消極的

歩兵戦闘車(IFV)

装甲:戦車には劣るものの、機関砲や一部の対戦車兵器に耐えうる
武装:20mm以上の機関砲を搭載
その他:歩兵を搭載するが戦闘に積極的に参加する

偵察戦闘車(RCV)
装甲:IFVに近いものとAPCに近いものに分けられる
武装:20mm以上の機関砲を搭載する事が多いが、それ以下のことも
その他:歩兵は搭載せず、軽戦車的な運用も行われることもある

自走砲(SPG)
装甲:APC同様、歩兵の攻撃に耐えうる程度
武装:大口径の榴弾砲または迫撃砲を搭載
その他:APCを改造して迫撃砲を載せたものもある

現代の装甲車というのは、上記の5つのうち、基本的にどれかに分類されます
(戦闘に全く参加しない支援車両は含まれない)
(この分類は個人的な考えに基づくものです)

また、ベースになる車両が同じでも改造と運用次第で分類が変わることがあります
(例、BTR-80とBTR-80A 機動砲システムや自走迫撃砲を含むストライカーファミリーなど)


装甲車を見かけたら、ひとくくりに戦車と言わずにどれかに分類してあげましょう。




一ヶ月ぶりの記事更新でした。
ネタが思いつかないから書けないんですよね
時間もなかったんですが。

しかし、書いてる途中にいくらかネタを思いつきました。
次から単発ネタを何本か書いていきます

そうそう、結構な間放置していましたがそれでも一日あたり30PVくらい出るんですよね
何故なんでしょうか 分かりませんが。

Monacoin:MJnb1JP4sAtbBKGwDXi1ZzLBAoh7cCQmy5

2014年6月6日金曜日

ロシアとウクライナ:崩壊後のウクライナから現在まで

さて、5月はほぼ記事を書けませんでしたが今後も(リアルの方が忙しいので)全然書けないと思います。
仕方ないのでロシアとウクライナだけは終わらせてしまいましょう。今回で最終回です

実のところ、この記事だけ読めば今の状況は大体理解できるように書いてます


まず最初に、この記事における『ロシア人』『ウクライナ人』というのは、
『それぞれロシア、ウクライナに国籍を持つ人』という意味ではなく

民族的に『ロシアに帰属意識を持つ人』『ウクライナに帰属意識を持つ人』という意味になります

(日本の場合、国籍≒民族だから分かりにくいですよね)



ここまでのおおまかな流れを再確認しますと、
民族的にウクライナとロシアは同一の起源があり、
「キエフ・ルーシ」が国家として存在していました

1240年頃、モンゴル帝国の侵略によってキエフ・ルーシは崩壊。

「自称」キエフ・ルーシの後継者としてモスクワ大公国が(モンゴルに取り入ることによって)
勢力を拡大。モンゴルが弱体化し独立すると、「ロシア帝国」を名乗ることになります

この頃、現在のウクライナに相当する地域は国家と言えるものはなく
ロシア帝国とポーランドに分割されていました。
ロシア寄りはこの頃からロシア人が多く、ドニエプル川より東はロシア人が多くなります

モンゴル帝国、東欧での勢力が弱体化、東欧では実質崩壊

モンゴル帝国の時に移住してきたタタール人達がクリミア半島で国家を立て、
クリミア・ハン国となる。
このタタール人達は現在「クリミア・タタール人」と呼ばれており、現在もクリミア半島の人口の1割を占めている。

1600年代 ポーランドに対する反乱によってポーランドの支配下から脱却、
ウクライナ民族の国家、「ヘーチマン国家」が誕生する
ポーランドとの戦争を継続し、独立を守るためロシアに保護を求め、ペラヤースラウ条約にて
ロシア帝国はヘーチマン国家を保護国とし、後に併合する事になる

また、ロシア帝国はポーランドとの戦争に介入し、講和条約にてウクライナは再度東西で分割される。

クリミア・ハン国、オスマン帝国の属国となるが
ロシア帝国とオスマン帝国の戦争によってオスマン帝国はクリミア・ハン国の宗主国ではなくなり
クリミア・ハン国はロシア帝国に編入され、
現在のセヴァストポリにロシア海軍の拠点が置かれた。
そのため、ロシア人がクリミア半島に移住。クリミア・タタール人とロシア人が共存する状態になる

一次大戦勃発。ロシア帝国はドイツに対して敗北を続け、
工業化政策と国家総力戦のための農民冷遇と国民負担の増加によって
帝都サンクトペテルブルクでデモとストライキが発生、
広範囲に拡大し革命に発展しロシア帝国は崩壊。
二月革命時に参加した巡洋艦アヴローラのバッジ
革命60年記念で製造されたものと思われる
(近所のイオンモールで購入。確か500円)



ロシア帝国の崩壊によってウクライナが独立するも、
ロシアで政権を獲得したボルシェヴィキ・ソヴィエトは独立を認めず、
ウクライナへ侵攻。(また、ドニエプル川より東はロシア人が多いため、ウクライナ民族主義を掲げるウクライナ政府に反発する者も多く
ウクライナ政府がウクライナ全域で支持されていわけではない)
ウクライナ側はドイツと協力したりポーランドと同盟したりなどして生き残りを測りますが、
結局ボルシェヴィキ・ソヴィエトはウクライナを併合し、
ソビエト連邦の構成国「ウクライナ・ソヴィエト共和国」となります

戦前ソヴィエト時代。
工業化を無理に進めるために農民を犠牲にする。
農民が多かったウクライナで数百万人規模の餓死者が発生するも
ソヴィエトでは大したことではなかった。

戦中ソヴィエト時代、クリミア半島に上陸したドイツ軍に協力したタタール人がいた事を根拠に
スターリンは20万人のクリミア・タタール人を中央アジアへ強制移住させた。
また、そのうち10万人が移住の過程で死亡したとされる。

クリミア半島がロシア・ソヴィエト共和国からクリミア・ソヴィエト共和国へ移管される。
但し、セヴァストポリはソ連海軍黒海艦隊の拠点であるため閉鎖都市となり、
セヴァストポリ特別市になる
セヴァストポリの市章を象ったバッジ。
こちらも近所のイオンモールで購入。300円


予算、電子技術、経済の不調その他もろもろの理由によりソヴィエトは崩壊。
ウクライナは再独立を果たす。

今回はココ





・崩壊後の問題処理 ソ連の遺産などに関して


ソ連崩壊後、旧ソ連構成国による独立国家共同体(CIS)が誕生します。
簡単にいえば、現在のEUのような「連邦ほど強固ではない国家の繋がり」みたいなものでしょうか

因みに、EUに比べれば繋がりは弱いです。独自の議会も憲法もないので。

更に、ソ連時代に建設された様々な軍事施設、インフラなどの問題が残りました。
まずはロシア国外に配備されていた戦略核、弾道ミサイル、その他の装備。

これらがロシアの手から離れれば核拡散となるため、西側諸国はそれを警戒していました
国力が足りなかったり、信用が置けない国家が核兵器を持ったら
財政難だからと面倒な国家(イスラエルとか北朝鮮とかその他もろもろ)に核を売り飛ばしかねません
(他にも、核保有国に対して「核兵器手放すから金よこせ」みたいな事もできます)

しかし、CISによってロシアが全て回収、または管理することが決められたため
核拡散は防止されました。

また、ロシア国外において、ロシアが手放せないものがいくつかありました。
例を挙げるとすれば、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地やクリミア半島に位置する黒海艦隊の拠点、セヴァストポリなどがそれに当たります

バイコヌールに関してはロシアが租借料をカザフスタンに支払うことでロシア連邦宇宙局が現在も使用しています

セヴァストポリはクリミア半島に位置する軍港で、帝政ロシア時代から黒海艦隊の拠点となっていました。
ソ連崩壊時、クリミア半島はウクライナ・ソヴィエト共和国に属しており、
ソ連崩壊後もウクライナに引き継がれたが、軍港機能を移転させられるような場所はなく、
少なくとも今後十年以上は移動できる場所が無いため、
ロシアはセヴァストポリの軍港地区を租借地とし、ウクライナに租借料を支払うことで駐留が認められました。


しかしながら、クリミア半島の人口における多数派はロシア人であり、
1994年、クリミア州議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国の独立を宣言しました。
海軍基地をウクライナから取り戻せる機会ですし、この宣言を支持しました。

しかしながら、この頃同様に独立宣言をしていたチェチェン共和国に対して武力鎮圧を行っていたロシアは「チェチェンの独立運動は弾圧するのにクリミアは支持するのか」と国際的非難を浴びたため、クリミアの独立運動への支援を取りやめた。
結果、ほぼ確実に支援してくれると確信していた後ろ盾が無くなり独立の実現が難しくなったために運動は沈静化し、その後ウクライナはクリミア半島を「自治共和国」とし独自の憲法を持つ権利があると認めました。




・天然ガスパイプラインに依存するということ

ロシアが供給する欧州へのガスパイプライン
実線は現在稼働しているもの、破線は計画、建設中のもの


ロシアはソ連時代、ロシアからウクライナ、ベラルーシを経由して東欧各国、終点としては東ドイツとイタリアまで至る天然ガスパイプラインを建設し、
東欧諸国に対する経済支援と、
ソビエトに東欧諸国のエネルギーを依存させることで西側への牽制として格安で天然ガスを供給していました

ソ連崩壊後はパイプラインの権利は分割され、
パイプラインが通る国の国営企業が保有することとなりました。
そして、ウクライナとベラルーシへの天然ガス売却価格は非常に安く抑えられました。

これはロシアから離れるほどパイプラインのコストで値段が上がっていくためで、
ウクライナがロシアから買ったガスがパイプラインのコストを上乗せされてスロバキアへ売却され、
スロバキアは更にコストを上乗せしてチェコへ売るという事を繰り返すわけです。

1990年代、ウクライナはパイプラインからの無断抜き取りと料金不払いを多発させており、
度々ロシアから供給停止されていました。

2004年、ウクライナで親欧米政権が誕生し、ウクライナもEUに加盟するべきであるという議論が出始めると、
2005年、ロシアはベラルーシのパイプラインの権利を獲得すると共に、
ベラルーシに対して低価格の維持を保証する一方、
ウクライナに対し新価格としてそれまでの4倍以上という価格を提示した。
(ちなみに、この新価格は国際相場とほぼ同じです)


当時から現在にかけてのウクライナのエネルギーはほぼ全てロシアからの天然ガスパイプラインに依存しており、
ロシアを裏切ることがあればウクライナはロシアからエネルギー供給の停止や急な値上げを行い
一般市民に直ぐ影響が出るような手段で、制裁を行うことが出来た。

2006年、価格設定等に関する契約がまとまらないことを理由にウクライナ向けのガスの供給を停止。
しかし欧州諸国向けの販売、供給は継続されたが、
欧州諸国向けと同じパイプラインでウクライナに供給していたため
ウクライナはパイプラインからの無断抜き取りを実行。

欧州諸国ではガス圧が低下して大混乱を招き、
最終的に2004年までの価格の2倍で契約が成立して供給は再開された

また、国民がロシアとの関係悪化によるリスクを(身を持って)理解したためか、
2006年初頭には内閣不信任案が採択されたり、
総選挙で親ロシア派の政党が大幅に議席を増やしたりした。

また、ロシアはウクライナだけを干しながら安定して欧州諸国にガスを供給するために、
バルト海の海底を通過しドイツに至るノルド・ストリーム
黒海の海底を通過しブルガリア経由でイタリアやハンガリーなどに至るサウス・ストリーム

この2つの天然ガスパイプラインの建設を急ぎ、
ノルド・ストリームに関しては2011年より稼働している。

ノルド・ストリーム
2011年より稼働中

サウス・ストリームのルート
現在建設中

・東西ウクライナの差

現在のウクライナ騒乱の根本的な原因は、ウクライナ国内の東西差によるものが大きいです。
元々ロシア民族の所有物のようなクリミア半島は別として、
今までの記事でも散々書いてきたように、ウクライナは西と東で民族の割合が違い、
それが原因で100年前のウクライナ人民共和国もソ連に飲み込まれたのです

ウクライナにおいてウクライナ語を母国語とする人たちの割合の地図ですが、

ウクライナ全土の図 色が濃いほどウクライナ語が母語の人が多い

逆に、ロシア語はというと
(ウクライナ語のものと割合と色の関係が違うことに注意)

見て分かるように東側、ロシア国境近くではウクライナ語話者は少なく、
南側の2つの半島、西のオデッサではかなり少なく、東のクリミア半島に至ってはほぼ居ないのです。
言語の差はそのまま人々の間で壁となります。

今一番熱いドネツク州もロシア語話者が75%を占めており、
格安の天然ガスの恩恵を最大限に受ける工業地帯を抱えており、
東部は全体的に工業が発達しています。
それに比べて西部は中心産業が農業で
東西での経済格差は激しく、平均月収の差が東部の州と西部の州で1.5倍ほどあります
平均月収の図
また、西部は首都キエフから北に100kmの所にウクライナ最大のお荷物を抱えています。

チェルノブイリ原子力発電所です
現在のチェルノブイリ原子力発電所
左に「石棺」の上から覆うための「鉄棺」が建設されている
ウクライナはチェルノブイリ原子力発電所の対策に国家予算の1割を使っており、
東側から見れば西ウクライナは完全に「お荷物」なわけです

逆に、西ウクライナとしては東ウクライナが独立してしまうとこのお荷物を抱え、
税収も減って国債デフォルトまっしぐら、緊縮財政になってソビエトもびっくりの苦しい生活が待っています

因みに、ロシアとしては前述のガス料金の未払い分さえ回収できればいいので、
東ウクライナが独立して返済してくれるもよし、独立に失敗しても何かしらの手段で回収できればなんでもいいんです

・2014年 ウクライナ騒乱

2013年、ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領は欧州連合(EU)協定調印を棚上げし、
これに講義するため親欧派市民がキエフでデモを開始。

2013年12月1日
キエフにて

これが長期化、過激化して2014年に入る頃には武力衝突を始め、死傷者が発生。

2月、ヤヌコーヴィチ大統領はキエフを脱出し、
翌日議会がヤヌコーヴィチの大統領解任を決議。
暫定政権が成立する。


3月1日にはロシアはロシア系住民の保護を理由にクリミア半島にロシア軍を派遣。
欧米はこれを軍事介入だと非難。
米国はロシアに対し経済制裁の可能性があると警告した。

クリミアでは住民投票が行われ、83%の投票率で96%が独立及びロシア連邦への参加に賛成し、
21日にロシア連邦議会で編入に関する条約が批准され、クリミアとセヴァストポリはロシア領となった

その後、ドネツク州等で親ロシア派がデモを行い、
武装した新ロシア派が市庁舎等を占拠、
「ドネツク人民共和国」「ハリコフ人民共和国」「ルハンシク人民共和国」の独立を宣言し、
ドネツク州では5月11日に自治権強化の是非を問う住民投票を実施。89%が自治権強化に賛成するという結果になった。

ウクライナ暫定政権はこれらの新ロシア派の行動を「テロ行為」とし、
「対テロ作戦」としてウクライナ軍を派遣するも、
住民がウクライナ軍の行動を妨害するため道路で座り込みを行い、武装解除し引き返した。
果てには装甲車ごと新ロシア派に寝返る兵すら出てくる始末。
どっかの革命で同じようなことがあった気がしますね

やる気のないウクライナ軍


他にも、オデッサでウクライナ軍兵士が武装解除の説得をしようとした非武装の市民を射殺してしまったりして混乱は悪化するばかりです。

現在は戦闘が可能な部隊がドネツク州の親ロシア派と交戦していますが
市民に支持されているのは親ロシア派のようです。
ドネツク州で火力支援を行うMi-24ハインド


・ウクライナ騒乱に対する各国の思惑

ロシア

ロシアの目的はクリミア半島及びセヴァストポリの確保、
及び未払のガス料金回収です(因みに日本円で1.6兆円ほど)


クリミア半島が騒乱に巻き込まれた原因は単純に
「ソビエト時代によく分からない理由でウクライナにクリミア半島を渡しちゃった」事に他なりません

また、クリミア半島はロシア帝国が併合し黒海艦隊の拠点をおいた頃からロシア人の数が多く、
現在でもロシア人が人口の半数以上を占めます。

更に、クリミア半島、その中でもセヴァストポリはロシア/ソビエト海軍黒海艦隊の拠点であり、
ロシアの黒海における重要な都市です。

セヴァストポリをロシアが利用できるからこそロシアは黒海においてほぼ絶対的とも言える制海権を持っているわけで、
ウクライナやその他の黒海沿岸国家に対して圧倒的な戦力を保持する事ができるわけです

逆に言えば、セヴァストポリにおけるロシアの権利がなくなってしまえば
ロシアは黒海におけるあらゆる権利を失うことに他なりません
黒海にも地下資源が眠っていると言われていますし、
国際的非難をいくら浴びようとも軍事行動を起こしてでもセヴァストポリだけは確保しなければなりません

また、南オセチア紛争(2008)でロシア軍とグルジア軍が交戦し、
再び南オセチアに居る非グルジア系民族を弾圧した場合、
ロシアは再びグルジアへ介入するものと思われます

ロシアからグルジアへ向かう際のルートは貧弱で、待ち伏せを受けやすく補給に不安が残ります。
そのため、海上からの輸送、補給ルートが必要になるわけですが

セヴァストポリを失うということは、これらの補給ルートも失う可能性があり、
グルジアが調子に乗って何かやらかすかもしれません。

その場合、ソチリンピック会場のすぐ近くを装甲車が歩兵を乗せて陸路でグルジアに向かうという
笑えない状態になるわけです。

つまるところ、セヴァストポリはロシアの黒海戦略の中心であり、心臓部なわけで
そんな場所を国際社会に非難されたからと渡すとは到底思えません

今後、ロシアとしては何かしらの条件でウクライナにクリミアの編入を認めさせるつもりだと思われます
未払のガス料金がチャラだとか、ガスが一定期間無料とか…

因みに、ウクライナがロシアのガス依存から脱却する場合、多大な出費が発生し、
下手したらウクライナ経済が死にかねません。
(ロシアから買わない場合、LNG施設を一つも持たないので建設費が嵩む
その金を誰が出すかといえば欧米が出してくれるらしい。本当かは知らないが

原子力発電を導入しようものなら更に金はかかり、その他の化石資源でも同様である)


逆にロシア的にはウクライナが買わなかったところで欧州が買ってくれるので何の問題も有りません。
EUが経済制裁で買わなくなる可能性もありますが、
その場合欧州の一般市民にも影響が出て国民がロシア支持になりかねません

特に東欧はロシアのガスに依存しているので死活問題です。

ロシアはウクライナ債券を多量保有していますが、
仮に東部州が独立した場合、お荷物の西部だけでは金を生み出せません。
そのため、諦めているか
東部州を併合してそこの税収から回収するかなどを考えていると思われます

東部州が独立に失敗した場合でも今までと変わらない計画で回収は出来るでしょうし。



EU・米国

欧州連合は連合の勢力圏拡大とロシアの影響力低下を狙っているものと予想されます

あと、ウクライナは多額の負債(しかも外貨で)を抱えており
これを破綻、またはそれに近い状態にさせて緊縮財政を敷き、
債券を回収するつもりかもしれません

そのためには金を生む東部州が必要なので
必死で独立を妨害しているわけです。
昨日のG7(ロシア抜き)での合意っぷりもなにかありそうで嫌ですね

そもそも、本気で金を出す(というかIMF経由で貸す)つもりがあるのか分からなくなってますが…


今後の可能性

東部州を再確保できるかどうかは未だ不透明です。なんせ戦闘は始まったばかりですからね
ただ、市民の支持もあるので親ロシア派が勝利する可能性が高いと自分は考えています

・東部州を確保できなかった場合
東部州はロシアに併合、または新たに国としての機構を持ち実質的な独立。
西部州は不履行不可避です。
この場合、欧米側は今までの経済支援を含めて大損こくことになる。
1.7兆円も支援しておいて回収できないわけですから(日本は1000億円出しました)
その後は自分には予想しかねます。

・東部州を再確保出来た場合
緊縮財政でウクライナ国民の生活は厳しくなるかも。特に東部州は。
それが原因で再び混乱を生む可能性高し。
結局国として分離しないと争いは再び発生すると思われます

・ロシアが東部州独立運動の後ろ盾をやめて、代わりにクリミアの併合をウクライナに認めさせた場合
新ロシア派の活動は一気におとなしくなり、独立運動は消えます。
しかし、やはり緊縮財政→不満→騒乱ルートが見えています


どんな結果になっても禍根は残りますね確実に

・最後に

長々と続きましたロシアとウクライナシリーズ、これにて完結です。
4月11日からなので、ほぼ2ヶ月?
後半1ヶ月はリアルの方で時間取られて書けませんでしたがとりあえずこうやって完結しました。

このシリーズで書いた文字数は4万文字くらいあるようです。ひえー

今後更新ペースは良くて週一、悪けりゃ月一レベルになるかもしれませんが
まだやめるつもりはないです。一応。


また、記事を書きながら思ったことを幾つか。
まず、この問題は調べていくと「親ロシア派が正しい」と考えるようになりました
今回欧米諸国臭すぎですよ。特にクリミアに関しては。
そもそもロシア帝国のモノで、ロシアの裏庭みたいな場所なんだからねぇ…

当然、国際法的にどうかと言われれば怪しい部分がありますが、
東部州とクリミアに関しては住民の支持が厚いため、ロシア有利ですね

そもそも100年前にウクライナ人民共和国が失敗した理由から学んでない気がするし、
ウクライナの国境がおかしいんですよそもそも。

帝政ロシアの時の内部的な境界線をそのまま使ってるし。

まあ今回はこのへんで。
次回は英国面とか息抜き系の記事になると思います


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コメント欄で質問など書いていただければ分かる範囲で答えます。

2014年5月15日木曜日

ロシアとウクライナ:ソビエト崩壊とクリミアのウクライナへの編入。

さて、前々回ベルリンの壁が茶番でぶっ壊れた話をしましたが、
では、ソビエト本体はどのように潰れたのか。今回はそれの話です

ソビエト崩壊の話に入る前に、戦後のクリミアの話を少ししておきましょう
大戦中、ドイツ軍がクリミアに上陸し、3年間に渡って戦闘を繰り広げました

戦後、ソ連政府はクリミア半島にジョチ・ウルス、クリミア・ハンの頃から住んでいた
クリミア・タタール人を中央アジアへ強制移住させました。
戦中ドイツに協力した者が居たことを理由に民族ごとシベリア送りにされたのです。
(実際に送られたのはソビエトの中央アジア地域ですが広義のシベリア送りでもあります)

移住の過程で約半数に当たる10万人が死亡したとされますが、
スターリン時代のソ連では「その程度か」で済むレベルでした。
1940年代までのソ連において大量死は民族問わずそこまで珍しいものではないです

1954年、スターリンの死後クリミア州はロシア・ソヴィエト共和国から
ウクライナ・ソヴィエト共和国に表向きの理由は
「地理的、経済的関係がウクライナと密接であるため」という理由で、
実際のところはソヴィエトを主導するロシアに対してのウクライナ国民感情を抑えるため、
友好の証として割譲されました。

当時はどちらもソヴィエト連邦であったため、この割譲にはそれ以上の意味はないものでした。
その意味のないものが今年になって大問題になったわけですが。



ソ連の限界


1980年台後半のソ連。


肥大する軍事予算、それでも追いつけないアメリカとの軍事力差、
停滞する経済、慢性化する汚職に、不足する物資とそれに不満を持つ人民。
更に東欧諸国を始めとする社会主義各国への経済支援の負担

「労働者の祖国」と称しながら実際は労働者、
特に農業従事者を冷遇し、抑圧し支配するというのがソ連であり、
革命の原因であった農奴制からの農民の不満のことを考えると何のための革命だったのか という考えが浮かびます


ソビエト社会主義が限界を迎えていたのは誰の目にも明らかでした

ソ連末期、モスクワ市内の店舗
明らかに物資の種類が少ないのはやはり社会主義が原因でもあるが、
それでも1960年台と比べると明らかに減っている。
首都ですらこの有り様なので、地方は更に劣悪な状況であることは言うまでもない


ゴルバチョフはペレストロイカ、つまり再改革とグラスノスチ、情報公開を進め
急激な改革を行わないことで保守派の反発を抑えつつ社会主義からの順次脱却を図っていました。

東欧諸国にも圧力をかけ、ポーランド、ハンガリー等が一党独裁体制から脱却し民主化していきました

但し、ゴルバチョフはソビエト連邦は解体せず、当時の連邦を維持したまま
極端な中央集権体制だったそれまでのソ連から脱却し、
地方分権と新たな連邦条約を結び、『新ソビエト』とも言える新たな連邦制を想定していました。

そのため、エストニア、ラトビア、リトアニアという所謂「バルト三国」の独立要求に関しては武力鎮圧を行う立場を取りました。
因みに、この3ヶ国は歴史的に深い関係性があるわけではなく、
強いて言うなら「ロシアに侵略され、『小銭扱い』される運命共同体」である事くらいです

しかしながら、ロシアの動きによって同じような運命をたどることになるバルト三国は
ソ連崩壊に際して協力体制を持っていました。

1989年の3カ国に渡る「人間の鎖」は
3ヶ国の共産党が計画し、実施する際にもルートを周到に調べ上げ、
参加者を輸送するためにバスを手配したり、参加者全員がラジオ放送聞くことで調整したりなどの大規模な計画のもと実施されました

つまるところバルト三国の共産党、もとい自治政府の政治的メッセージだったわけです


ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチは一定の効果を上げていましたが、
ゴルバチョフは保守派の反発を抑えるため、急速な改革は行わない方針で、
経済政策に関して、保守派との妥協点を見いだせず、行き詰まってしまいました。

そんな中でボリス・エリツィンが台頭してきます。
保守派との妥協などせずに切り捨てて、改革を早急に進めるべきであるというのがエリツィンの考えでした

1990年、国民世論は既にエリツィンらの急進改革派支持に傾いており、
保守派の話など最早誰も誰も聞かないようになっていました

1991年の大統領選においてエリツィンが勝利し、
保守派の候補者が惨敗したことが更に保守派を追い詰め、クーデターを発生させることになりました
(ソヴィエト連邦の大統領ではなく、ロシア共和国の大統領である点に注意。
当時のソヴィエト連邦大統領はゴルバチョフ)

ソ連8月クーデター・8月革命

ゴルバチョフはソヴィエトの新連邦条約を準備していました。

この新連邦条約は各主権共和国の権限を拡大し、ソヴィエトをより「ゆるい」繋がりにするものでしたが、
保守派はこれを「バルト三国などの国を完全独立させる原因になりかねない」という主張をしてこの条約に反対しました。

調印の予定日は8月20日、クーデターはその前日に起きたのです

1991年8月19日、
クリミアの別荘で休暇中だったゴルバチョフは保守派だった副大統領に
副大統領への全権委任と非常事態宣言の受け入れを要求されるも拒否し、
別荘に軟禁されました

保守派は「ゴルバチョフ大統領は体調不良で執務不能なため副大統領が執務を引き継ぐ」と発表。
モスクワ中心部に戦車が出現し、国営放送は保守派に占拠された。
(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。)
クレムリンの前に展開するT-80UD



エリツィンは記者会見を行い「クーデターは違憲、保守派の行動は非合法」として
ゴルバチョフ本人に全権委任の証言をさせることを要求し、
エリツィンは「ベールイ・ドーム」付近の戦車兵を説得して寝返らせ、
そのまま戦車の上に乗って演説を始めた。
エリツィンの呼びかけに集まった市民らによって「ベールイ・ドーム」の周囲にバリケードが設置され、

市民は火炎瓶や銃を持ち寄り、保守派との臨戦態勢でベールイ・ドームに陣取った。
参加した市民の総数は翌日には10万人にもなった。

これらはテレビ・ラジオ放送や新聞が利用できない状態で集まったもので、
保守派の監視がインターネットに及ばなかったために西側諸国に情報が伝わりそこからモスクワに情報が戻ったとも言われている

ベールイ・ドームの前の戦車の上で演説を行うエリツィン
ベールイ・ドームはロシア語で「白い建物」 要はホワイトハウスである
その後クーデター側からの寝返りも多発し、
ストライキ、デモも国内各地で発生。国民が保守派を支持していないのは誰の目にも明らかであった
また、市民が保守派の戦車部隊と衝突。戦車2台を撃破したが十数人の死者が出た。

結局、クーデターは失敗に終わり、
クーデターの首謀者は当然拘束されることとなった。

しかし、その首謀者というのがゴルバチョフの側近ばかりであったため、
皮肉にもゴルバチョフの信頼も失墜、それに伴い共産党の信頼も失墜した

8月末にはモスクワ中心街で共産党活動を禁じる大統領令にエリツィンが署名、

12月、ゴルバチョフは「ソビエト連邦構成共和国離脱法」を成立させた後、
ソ連大統領を辞任、党の中央委員会を解散させ実質的にソ連共産党は解散となった
(この「ソビエト連邦構成共和国離脱法」を根拠にしてチェチェン紛争が始まるわけですが)

因みに、このクーデターの間にバルト三国は独立宣言を行い、
クーデター後にロシアに独立承認された。

ソ連は「新連邦条約」よりもさらにゆるい繋がりとして「独立国家共同体(CIS)」へと変化して
連邦は消滅した。



次回は崩壊後のウクライナと現在のウクライナの話です。

おそらく次回でロシアとウクライナは最後の記事になると思います

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2014年5月5日月曜日

ちょっとオカルトじみた話「延々と続くブザー音 The Buzzer」

ロシアとウクライナの記事の途中ですが、
ちょっと面白い話を見かけたので記事にしてみようかと思います

最も、これもソ連やロシアに関わることなのですが。






世の中には、様々な周波数の電波が飛んでいます


我々が普段使う携帯電話の電波は700-2000MHzという波長の短い電波を使い、
テレビ放送や無線LANと言った身近で電波を用いる機器は大体この領域を使用します
「UHF」と言われる領域です

これは、波長が短いためにアンテナを小さく出来、
波長がこれ以上短すぎると電波の直進性が高すぎて遮蔽物の裏などに電波が届かず、
移動体通信等の用途には向かないことが原因です。

このため、電波帯域の中で一番人気のある領域であり、
「電波の帯域は有限な資源だ」などという主張は、実用で最も価値のある電波帯がこの領域に集中してるため言われることです。

テレビ放送がアナログからデジタルになったのも、
データの効率を向上させることでテレビ放送で使用している領域を圧縮し
他の用途に電波を利用するためです。
(だったらNOTTVなんて誰得な赤字サービスはやめて欲しいもんですが、300MHz以下は使うのが難しいのも事実です)


で、今回の話は「短波放送」に関するものです
短波というのは波長が(UHFに比べて)長いため、アンテナが大きくなってしまうという特徴があります。
短波よりさらに波長の長いAMラジオ放送を受診するためにはFM放送よりも大きな受信機が必要なため、
携帯電話や音楽プレイヤーにFM放送の受信機能はあってもAMラジオ放送の受信機能が無いのはこの辺りに理由があります。


さて、AM放送もそうなのですが、短波放送にはとある特徴がありまして
それは、『電離層で反射する』というものです
MFに相当するのが日本のAMラジオ放送 昼間は反射しない
この特徴、昼と夜で反射する周波数などが変わってくるのですがその辺りは割愛します
とにかく、この特徴を利用して短波を大気に反射させることにより、
遠くでも短波放送を受信することが出来るわけです

最も、距離や気温、日照、太陽の活動等、電波放射角によって受信可能地域は変わりますが。

この「遠くでも聞ける」という特徴を利用して、
20世紀から国際放送で利用されてきました。
日本でもNHKが国際放送を短波で行っています。

また、この短波による国際放送を受信する「BCL」が流行ったこともあるそうです
近頃は受信するためのラジオそのものがあまり売っていないそうですが。



冷戦時代は西側諸国からの情報を短波放送で送ったため、
東側の人は短波ラジオを持っているだけでNKVD(秘密警察)が家に来る。ということもあったようです

逆に、ソ連などの東側諸国からも革命的、共産主義的な情報を送信するため、盛んに短波放送が行われていました。
東側の音楽を聞くために短波放送を聞いていた人も居たみたいですね

現在でも、情報封鎖が行われている北朝鮮に対してニュースを届けるため、
朝鮮語放送が韓国から、
日本国内では、拉致被害者向け日本語放送「しおかぜ」「ふるさとの風」が行われています。
北朝鮮国内ではジャミングされて聞けないことが多々あるようですが。





さて、前置きが長くなりましたが
今回の話のメインはとある放送局に関するものです。

その放送局のコールサインは「UVB-76」
周波数は4625KHz

正式な放送局の名称は不明ながら、「The Buzzer(ザ・ブザー)」という愛称があります
この愛称は短波放送の内容に由来するもので、
その内容というのが

(動画に表示されている画像は電波を発している施設の航空写真です)
あと、視聴注意。機械的ですが結構不気味なので。


これです、このブザーをほぼ1日中発していて一日50分間点検のために停止する以外は
常にブザーを鳴らし続けているのです。

これが「ザ・ブザー」の由来です。
1982年から2秒おきに電子音を放送していたのですが、1990年に動画のブザー音に切り替わったそうです。

そして、この放送は1982年から現在、2014年までの32年間
今でも続けられています。



UVB-76を放送していた施設


この不気味な放送、なんの為に使われているのかという議論が昔から(主にネットで)
繰り返されてきました。

電波の受信方向から電波を発している施設の場所は特定できたものの、
軍の施設であるため当然入ることは出来ず、
その外観と放送内容、周波数から様々な説が出てきました

1:ある種のデッドマン装置のような、設備の障害検知用の生存信号ではないか

つまり、装置設備が正常に作動している間だけブザーが鳴り続け
ブザーが止まれば動作に何らかの問題が発生したということが分かるというものです

実際、この放送はマイクに何かの装置が発している音声をマイクが拾っていることが分かっています
(根拠は、会話音がブザーの後ろから聞こえてくることがまれにあるため
会話内容はノイズと一体化しているため不明。)

同様に(施設がモスクワに近いため)
「旧ソ連全土に対するモスクワの生存信号で、72時間以上途切れた場合は所定の目標に核攻撃を行う」という説も出てきました

2:電離層の反射状態から地震や地下核実験等を検出する

先にも書いたように、短波は電離層で反射する特性を持っており、
気温、日照、周波数によって反射が変化してくるので
それを観測することによって電離層の状態を把握することが出来るのです

また、地震が起こる際は電離層の状態が大きく変化することが知られています
(そのせいか米国の電離層観測・研究施設HAARPが電離層に影響を与え、
意図的、人工的に地震を発生させているという陰謀論が存在する)
HARRPのアンテナアレイ



更に、地下核実験を行った際も電磁パルスによって電離層が変化することが知られており
これらを検出するためとも言われていた
(この電磁パルスを逆手に取ったのが核兵器の運用法の一つ、EMPである)


しかし、ブザー以外が放送されたことによって他の説が出てきました

3:国外のスパイ向け乱数放送である

短波ラジオというのは長い間、国外のスパイに対する暗号通信の手段として用いられてきました。
これは、軍で用いられる暗号と同様、乱数表を手元に持っている人間にだけ放送の内容を理解できるもので、
一方的な情報送信でいいならば、情報送受信時に対象国の防諜に気づかれにくいため
一番安全な手段といえるでしょう。
電波を双方で送り合っていれば(長距離で電波を贈り合うならば大規模な設備が必要なため)
見つかりやすいですが、
ラジオを受信する人の中からスパイを見つけるのは非常に難しいのです

冷戦中の乱数放送は数多く行われ、乱数放送を受信していたとして逮捕された人も居ます。
これは西側での事で、乱数表を持っていたためスパイとして拘束されました

割と最近、かつ日本で有名な例としては「大韓航空機爆破事件」の犯人、
金賢姫が北朝鮮からの支持を短波放送で受け取っていたという話があります

現在でも北朝鮮、韓国、中国、台湾の乱数放送を日本で聞くことが出来ます。
最も、The Buzzerのように常に放送しているわけではないので録音していないとまともに聞けませんが。
(The Buzzerはアンテナと電離層次第で日本でも聞けます)


この説を補強するように、1997年には乱数放送によく似たメッセージが放送されました

≪Ya - UVB-76.
18008.
BROMAL: Boris, Roman, Olga, Mikhail, Anna, Larisa.
742, 799, 14.≫

これらの放送内容は乱数放送に酷似しています。

この後、2002年、2006年、2010年にメッセージを放送しました
2010年の放送。当然内容は意味不明。

2010年のメッセージの後、The Buzzerはしばらく放送を停止します。
この間に放送局が移動したらしく、

以前のように巨大なアンテナなどの施設が無くなったため、
大まかな位置は受信方向から予測されているものの、
どの建物で行われているかというのは移転後3年経った現在も分かっていません


また、この移転時期はロシア連邦軍の軍管区再編及び予算圧縮のための国防体制見直しによる
部隊の配置転換の時期と重なっており、用途が少しづつ見えてきていました

2011年にはUVB-76を放送していた古い施設が遺棄されていたため、
探索が行われました

探索をした彼らは軍事施設であると主張し、
無線放送記録も見つかったそうである。

しかし、やはり実際の詳細な用途に関する記録などは発見されなかったそうです
そりゃ引っ越しの時に機密に関するものを残していくとは思えませんしね

因みに、2010年に引っ越した後、
数十秒ながら音楽が流れたり、技術者の会話が流れたり、
謎の電話による会話が30分近く垂れ流されたりしてます。

引っ越しした時に色々ドジっちゃったみたいです。
なんか未知による恐怖感が削がれますよね。


その後、2012年、2013年にもメッセージは放送され

そして今年に入るとメッセージ放送の回数が異様に増え、
最近も月に1-2回の頻度でメッセージが送信されています。

最近ウクライナ周りで起きていることを考えると用途が透けて見えますね…


かつては秘密と未知と不気味さによって人々の興味を引きましたが、
それもすでに過去なのでした。

クリミアのロシア連邦に参加するための住民投票を行った日に変わった放送が行われたって辺りにも色々と見えてきますね

個人的にはロシア連邦軍の西部軍管区や南部軍管区の
工作員又は部隊に対する放送だと考えています。

ただ、それだとブザーを鳴らし続ける理由が分からないんですよねえ…
英語圏を探せばもっと情報があるでしょうけど流石に時間がかかりすぎるのでやめておきます


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2014年4月29日火曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエトと冷戦の終わり「茶番をしたら壁が壊れた」

ある意味見えない敵、予算との戦い


1980年代、
長く続いた冷戦は兵器開発競争に伴う軍事予算、国家財政との戦いでもありました。

兵器における電子機器の重要性が増していくと、
電子機器の開発能力が開発費と性能を左右するようになりました。

経済力が次第に増大する米国をはじめとする西側諸国は、
民生技術を背景に高い電子機器の開発能力を持ち、
民生技術の応用も数多く行われたため開発費も抑えられました。

それに対し、経済力の伸びが悪いソヴィエトを中心とする東側諸国は、
共産主義国家であるが故に民生技術も無く、
特に電子機器の開発能力に関しては貧弱と言わざるを得ず、
多額の開発費を投じても米国に一段劣る物しか開発できない有り様でした
(例 1970年代から1990年代にかけての戦闘機のレーダーやミサイルシーカー
その代わり機動性はソ連・ロシア製の方が高く、格闘戦においては有利)

その上、ソ連の想定以上に長引き泥沼化してしまったアフガニスタン侵攻の戦費が嵩み、
更に財政を圧迫していきました


ペレストロイカ、グラスノスチと汎ヨーロッパ・ピクニック


1985年、共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは
ソ連型社会主義を部分的に民主化、自由化する「ペレストロイカ」を実行。

それまで全て秘密とされた中央委員会(日本で言う国会に相当)の会議をテレビで中継する等
共産党内部の情報公開が進められた。

1986年にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退を表明。


更に、ソ連が東側諸国に対する政治圧力を放棄したことを表明し
それまでソ連を恐れソ連に従ってきた東側諸国はソ連の支配から脱し、
ポーランドでは1989年が民主化。複数政党による自由選挙が開かれ、
複数政党制に移行しポーランドの一党独裁制は終了した

また、ハンガリーも民主化を進め、
オーストリアとの国境封鎖を解除。
西側であるオーストリアとの間を行き来できるようになった。

一方、東ドイツは大戦から長きにわたって分断国家で、
社会主義、共産主義、監視社会に嫌気が差した数多くの人達が西ドイツへの脱出を試みてきた。
特に「ベルリンの壁」を越えようとした人々の話は有名である

当時、東ドイツにおいて旅行は許可制で、許可が出れば西側に行く事も出来たが、
実際の所許可が出るわけもなかった。

しかし、東側諸国に対する旅行は許可が出やすいため、
未だ「東側」と認識されているハンガリーに旅行に行くと許可をもらい、
そのまま不法出国してしまえば西ドイツに行けるのではないかと考えた。

実際はハンガリー人しか出国できなかったが。



その頃、東ドイツは分断国家であるがゆえ、国家の存在意義が「社会主義」以外無い訳で、
その社会主義さえ無くなってしまえば国家の存在自体が危うい状態だった

周辺国家がソ連のお墨付きの元、改革を進め次々と民主化していく中で
東ドイツはソ連の書籍すら輸入を禁止するような逆行状態であった

当然、東ドイツの首脳陣はこの国境開放に激怒したそうだが、
ソ連のお墨付きが出ているため目立った抗議は出来なかった。


しかし、ハンガリーで民主化を求める勢力や
政府の民主化改革派は多少強引な手段を使ってでも東ドイツ市民を越境させてしまおうと考えた。

表向き「集会兼お祭り」として企画された「ヨーロッパの将来を考える会」は
その実、西ドイツやオーストリアの外交官、ハンガリーの国境警備隊、入国管理局まで巻き込んだ盛大かつ大きな政治的メッセージを持った茶番であった。



「ヨーロッパの将来を考える会」は1989年8月19日に実行された。

その日、国境警備隊は「なぜか」検問所付近には居なかったし、
なぜか」検問所の係員が何時もより少なかった。

オーストリア、ハンガリー国境の検問所が破壊され、東ドイツ市民を満載したバスが次々に到着し、
国境のゲートを東ドイツ市民が走り抜ける中、

検問所の係員は不法出国が行われているゲートに背を向け、
オーストリア人のパスポートを一人10分以上かけて入念にチェックしていた。

ゲートを走り抜けた東ドイツ市民は、「なぜか」そこに居合わせた西ドイツの外交官から西ドイツのパスポートを受け取り、
なぜか」オーストリア側にあったバスに乗って西ドイツに向かった。

ゲートを走り抜ける東ドイツ市民
この事件は、「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれている。
どうも、彼らはピクニックをしていたら「なぜか」「間違えて」国境を超えたらしい。

全く持って盛大な茶番である

ソ連は当然この事件に関して見て見ぬふりをして、全く干渉しなかった

この様子は西ドイツ(西ベルリン)でテレビ放送されたため、一部の東ドイツ市民は当然見ることが出来た。
当然西ドイツの放送を受信することは禁止されていたが、
監視を逃れてほぼ全国民が見ていた。

東ドイツ政府は当然ハンガリーに激しく抗議し、
東ドイツ市民を強制送還するよう求めたが、ハンガリーは応じるわけもなく
正に後の祭りだった

この後もハンガリーからオーストリアへの東ドイツ市民の出国は止まらなかった。


10月になると東ドイツ政府はハンガリーへ行く際に必ず通らなくてはならないチェコスロバキアとの国境を封鎖。

数万人規模のデモが発生し、東ドイツ市民の不満は体制批判へと変わっていく。


周辺国が次々と民主化、またはその動きがある中、
社会主義を続けなければ国が消滅する東ドイツ政府の最後の頼みの綱は
ソ連の支持を得ることだったが、
ゴルバチョフが東ドイツを訪れた際、演説の内容や態度から東ドイツ政府を支持していないのは明らかであった。

この頃のソ連は社会主義を捨てるように諸外国に圧力をかけていたと言っても過言ではない状態になっていた



失言と勘違いで壁が無くなった


1989年11月
デモが拡大を続け、東ベルリンで100万人規模のデモが発生。

東ベルリンでのデモ(1989年11月4日)


なんとかこれを抑えるために新たな旅行法案を作るものの、
人民議会は旅行に国の許可を要するこの法案を否決。

デモの拡大、ストライキの広範囲発生。
党の中央委員会は罵声大会と化し、議会として成立していない有り様だった

9日、新たな旅行法案は党の権限によって政府政令として審議するため発表された。
但しこれが党の外部に発表されるのは翌日の10日の予定だった


その日、党の記者会見が行われたが、
会見を行ったのは中央委員会に参加せず旅行法案に関して知らない党員だった。
会見の前に資料として旅行法案の書類を渡されたが、中身をよく把握していなかったらしい。

国民の大量出国問題に関して、「我々はもう少々手を打った。
ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」

「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、全ての国境通過点から出国が認められる」と発言。
その後、発効日を尋ねられた際、「直ちに、遅滞なく」と発言。

実際にベルリンの壁を超えるには許可証が必要だったが、それに関して記者会見では何も言われなかった。

この会見をテレビで見ていた市民は半信半疑にベルリンの壁に集まった。

国境警備隊は10日に内容を知らされる予定であったため、
会見を見ていない警備隊と市民の間でいざこざが起きた。

ゲートに詰めかける市民


会見の3時間後には6つの検問所にそれぞれ数万人にもなる市民が詰めかけ、
武力鎮圧も出来ない状態になり最後には警備隊の独断でゲートを開放。
国境警備隊に撤収命令が下された。

日付が変わると市民がハンマーを持ち出してきて壁を叩き始めた。
更に数日後には東ドイツ政府によって壁の撤去が始まる。



冷戦の象徴は失言と勘違いと茶番と、わずか数時間で崩壊したのであった。






またウクライナとは関係ない内容なのですが、
ソビエト崩壊を語る時には必要な話なので…
次回はソ連崩壊前後のウクライナの話に・・・なるのかなあ?
東欧革命周りはまだ説明が必要かも。

あと、Kumacoin始めました。
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当然Monacoinでも寄付受けます
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2014年4月27日日曜日

ロシアとウクライナ:戦前戦後ソビエト時代

大粛清はウクライナとあまり関係がないので
大戦から崩壊前までのソ連を簡単に確認していきましょう。




1930年代後半に行われたスターリンによる大粛清は数百万人規模の犠牲者を出し、
赤軍の将校や共産党員すら巻き込んだ結果、
国力と軍事力の低下を招いた。

そして、軍事力と国力が低下したままドイツはソ連に対して侵攻を開始、
独ソ戦が始まる。

ソ連の工業生産力の殆どはモスクワより西側、
つまりドイツ、ポーランド側に偏っており、
特に旧首都サンクトペテルイブルグ改めレニングラード近辺に集中しており、
ドイツもソ連の工業力を削ぐべくレニングラードを包囲するよう進軍した

1941年、レニングラードは包囲された結果、補給が途絶。
都市の食料事情は一気に悪化していき、
冬になると燃料不足も手伝って飢餓による大量死が発生し始める。

当然、市民は死体を食らうに至ったが、その有り様は10年前のウクライナより更に悲惨なものだった

「人肉を売る店」すら有り、子供の人肉は美味いとされ、市内で子供の誘拐と殺人が横行。
結果レニングラードは100万人近い市民が死亡したとされる

冬に近隣の湖が凍結して通行可能になったのを利用して市民を市外へ運び、

生産力の保護を図るため、
レニングラードからモスクワより更に東、ウラル山脈より東に工場を疎開させた。



初期は押され気味だったものの縦深防御の成功によるドイツ軍補給線の疲弊と、
「必要ならば人命を消費する」というソ連らしい戦い方の結果、
ドイツは押し戻され始める。

第一次五カ年計画時の急速な工業化無しには押し戻すことも困難だったと言われており、
『ホロドモール』が無駄死、虐殺であるという主張に対する反論でたまに使われる。




因みに、スターリンは独ソ戦時に「一歩も下がるな!(Not one step Back!)」という命令を出している

これは、督戦隊を各部隊に配置し、交代してくる味方の「臆病者」を射殺する命令で、
徴兵したての士気が低い兵士を後退させないための命令だった。

よく言われる「銃は二人に一丁」というのは事実だったか怪しいのだが、
「無断で後退した臆病者には督戦隊が『懲罰』を与える」というのは事実であった

足りないものは人命で補うというのはこの辺りにも現れている。



ソビエトはアメリカからの数多くの物資の供給と
(色んな物を犠牲にして得た)強力な工業生産力に支えられてドイツに対して物量戦を展開。
ベルリンを占領し、ソ連が侵攻する前に日本も降伏したため、二次大戦は終了した。

独ソ戦の死者は2500万人、ウクライナでは1000万人近くが死亡したとされ、
これは当時のウクライナ人口の2割に当たる



大戦が終わると、核戦力を背景にした資本主義と共産主義の戦い、冷戦が始まる。
ドイツはソ連占領地域とアメリカ、フランス、イギリス占領地域で分割され、
東西ドイツとして冷戦が終わるまで分断国家で在り続けた

弾道ミサイル技術の展示会として使われた宇宙開発競争、
核戦力の配備競争、核開発競争、
兵器の開発競争など、自陣営が有利に立つために競争を繰り広げた。

西側諸国は二次大戦で見せつけられたソ連の『必要ならば人命を消費する』という物量戦を特に警戒し、
それらの侵攻を防ぐために戦場で使える核兵器、戦術核兵器の開発を急いだ
(その結果いくつかの珍兵器が生まれてしまったが)


ソ連はアメリカを始めとする西側諸国に対して、
軍事技術に関しては同水準のものを開発し続けた

しかし、ソ連の国力は大戦前から軍事生産や軍事研究に偏っており、
軍事技術は西側諸国に劣らないものであっても、
民生技術においては西側には遠く及ばず、長年国民の生活は改善しなかった。

大戦から時間が経つに連れて西側との経済力の差は大きく開いていった。

また、ソ連の食料生産は集団農業の影響で相も変わらず生産量が上がっておらず、
自給率が100%を下回っていたため、

冷戦で最大の対立国であったアメリカから食料を輸入せざるを得ず、
西側に輸出できるものが天然資源以外無いソ連は対外債務が日に日に増えていった。
にも関わらず、東側諸国に対する経済支援は外交上継続せざるを得ず、

冷戦におけるソ連の敗北は次第に確実なものとなる


1979年、アフガニスタンの共産主義政権に対する武力抵抗運動が勃発、
アフガニスタン政府軍だけでは抑えられなくなてしまったため、
政権はソ連に軍事貫入を要請。

ソ連はアフガニスタンに侵攻を開始した。
今現在まで40年近く続くアフガン紛争の始まりである。

抵抗運動は「ムジャヒディーン」と呼ばれた。
このムジャヒディーンの中には後に国際テロ組織「アルカーイダ」の指導者となる
ウサーマ・ビン=ラーディンも含まれていた。

平原と丘陵地帯(というかヨーロッパ)における正規軍相手の電撃戦と総力戦を想定していたソ連軍は
アフガニスタンの山岳戦に苦戦。

更に、アメリカやパキスタンの支援によって
ムジャーヒディーンは軍事訓練を受け、数多くの兵器や武器を受け取り、
山岳戦に悩むソ連に対して優位に戦った。

戦闘ヘリによる掃討作戦が実施された際に対空ミサイル「スティンガー」を
アメリカがムジャヒディーンに供給したのは有名な話である

1988年まで続くアフガニスタン侵攻による多額の戦費は、ただでさえ軍事費に偏っていたソ連の財政を更に苦しい物にして、ソ連を解体する原因ともなった



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2014年4月23日水曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエト・ロシアによる間接的虐殺「ホロドモール」

「ホロドモール」
割と知られてないかも知れませんが
ウクライナとロシアの関係を語る上で絶対に切り離せないものです

ここまでの記事を読んでいなくても分かるように書いています





1922年、ウクライナはソヴィエト連邦の構成国となった。

帝政ロシア時代の農奴制等の弊害もあって、
工業化遅れるソヴィエト・ロシアにとって
痩せたロシアの土地と比較して土壌の豊かなウクライナの穀倉地帯から収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。

結局、外貨のためにやってることは帝政ロシア時代と変わらなかった。


しかし、ロシア革命後に発生した資本家、地主等のロシア内戦とそれに伴って実行された
「戦時共産主義政策」は農民からの食料の強制徴収を行い、
戦争遂行のため軍への優先した食料と物資の再分配によって
都市では食料が不足。「買い出し」と「闇市」が必要になるという何処かで聞いたような状態となった

更に、当時の労働者層は農村から出てきた者も多いこともあって
農村に帰る事パターンが多く都市からの労働者が流出。
工業生産は革命前の20%まで落ち込んでいた。

これでは農作物以外の輸出など出来るわけもない。



戦時経済によって疲弊しきったソヴィエト経済を改善するため、
今度は「ネップ」と呼ばれる部分的な資本主義の政策が取られたが、

資本主義に基づく新たな資本家と自分の土地を所有する富農「クラーク」などが生まれ
社会主義の前提を崩れさせる「貧富の差」が発生した。




レーニンの死後、ヨシフ・スターリンがソヴィエト連邦の最高指導者となると、
社会主義体制に基づいた計画経済案「第一次五カ年計画」が策定された。

五カ年計画には「農業の集団化」という内容が含まれており、
これはネップによって復活した農産物の投機的売買を撲滅し、
土地、農機具、家畜等を集団で共有することで農民が勝手に市場に農作物を売却することを防止し
政府が独占的に農作物を買い上げることによって
国内で生産される食料を政府が監視できる状態にすることを目的にしたもので、

都市に対する食料供給と価格を安定させ、食料の流通における非効率的な要素を排除できるとされた。

…とされるが、実際のところは
極端な工業化政策によって都市に集まった労働者に安価な食料を提供するために
政府が穀物の市場価格を安く抑えたため
農民が出し惜しみをした結果、政府は都市に対して食料を供給することが出来なかったため、
半強制的に穀物を徴収するために農業の集団化を進めたのだった。



当然、これらの政策はウクライナでも実施された。
土地が豊かな分、ウクライナでは自分の土地を保有する農民も多かったため
集団化はあまり進まなかったが、
より多くの食料を管理したいソヴィエト政府は強制的に農業の集団化を進めた

当然、反発する者は多かったが
農業の集団化に反対する者に対してソヴィエト政府は彼らをネップ期に富を手にした「富農」であるとした。
この反対者達に関してスターリンは後年こう語っている
「(抵抗した農民の数は)ざっと1000万人くらいでした。抵抗する農民どもには極北の土地をくれてやりました」

実際の反対者達の数は定かでないが、彼らが文字通りシベリアに送りにされたのは事実である
因みに、そのうち処刑されたのは資料に残っているだけで2万人ほどになる。


しかし、「富農」だと言われた農民は勤勉な農民であることが多く、
非常に効率的で効果的な農業と長時間の過酷な労働の末に多くの農作物を生産したために
それ以外の農民より裕福な生活を送っていた訳だが、

集団化制作によって富農が弾圧されたため農業に熱心に取り組む人間がいなくなり、
政府が生産する作物を指定し、独占的に不当な低価格で買い上げるため
農民の労働意欲は低下しソ連全体の農作物生産量そのものが下がるという皮肉な結果になった。


以上の理由からウクライナで食料生産量が低下したが、これに関してスターリンは
ウクライナの農民が食料を隠しており、集団農場で食料を隠すことを『窃盗罪』とし、
その刑罰を厳しくすることでこれを改善できる
と、考えたのである


そのため、集団農場に所属する農民は政府や農場に秘密でパンの取引や落ち穂拾い、穂を狩ると
『人民の財産を収奪した』とされ、10年間の懲役刑…もとい強制収容所送りとなった
1933年春には家畜用の飼料ですら『悪用』すると強制収容所に送られると言われた。

また、農作物の徴収を強制的に行い、
生産量の何割、というものから最初に決められた一定量を徴収する形に変化したが、
都市の労働者に食料を供給するため、不作でない年でも生きて行くのに最低限の量だけが農民の手元に残るような量を徴収された。

1932年末、ウクライナで国内パスポート制が導入され、農民の移動の自由は制限された。
農民は村や集団農場に縛り付けられ、さながら農奴のように移動が出来なくなった。

また、農作物を確実に回収するため監視のため都市の労働者や共産党メンバーから構成される「オルグ団」が作られ、
農村や集団農場を巡回し監視した。

学校教育等を利用して子供にも監視させ、肉親を告発した者には
食料や衣服やメダルを与えた。





(この親を告発したという少女は親戚に殺されたという出所不明の話を見たことがある)



共産党メンバーは家々を周り、食卓からパンを、鍋から粥まで奪っていったと言われている


(画像を多めに用意しようと思ったのですが、キツい画像が多いので省略します)
(探せばかなりの枚数があります)
穀物類の強制徴収
1932年は欧州の広範囲で凶作であったが、他の国では特に問題にならない程度のものだった。
他国では目立った死者なんて出ていない。

しかし、ソヴィエトは違った。
食料を没収された農民はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫やドングリまで食べた。
それでも食料が足りない農民たちは病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べた結果
多くの人間が病死し、その死体を食って体調を崩し病死するという有り様だった。
果てには(生きている)赤ん坊を食べたことさえあったという。

通りには死体が当たり前のように転がり、所々に山積みされ腐敗臭が漂っていた。
死体処理のための労働者が都市から送られてきたものの、一向に死体は減らなかった


因みにこの頃のスターリンは
料理が気に入らないという理由で皿ごと床にぶちまけたり、
味が気に入らないからと食わずに捨てさせて作り直しを要求したり
数多くの作家を招待して高級食材を振る舞う運河の船旅を行ったりなどしていた。
わかりやすい独裁者である。



ソ連政府は死体の山が発生しても飢餓の事実を認めなかった。
輸出用の穀物を放出すれば農民の死は防げるはずで、他国なら普通そうする。

しかし、国外に対して世界恐慌の影響を受けない5カ年計画は成功していると宣伝していたため、
ソ連としては五カ年計画が原因になった飢餓の存在を認めるわけには行かなかったのだ


結果として、500万人以上の農民が餓死し、
ウクライナの農業人口の二割が死亡した。

彼らがなんの為に死んだかと言えば、ソ連の工業化のためである
都市の労働者を養えなければ工業化は進まないが、
農民にも労働者にも十分な食料が与えられるような工業化では西欧諸国には追いつけない。
そう考えられた結果、「人命を消費して」急速な工業化を行ったのである。


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2014年4月21日月曜日

ロシアとウクライナ:ボルシェヴィキのソヴィエト/ウクライナの復活と敗北

1917年2月。
帝政ロシアは倒された。
ウクライナは独立を勝ち取るチャンスを得た。

ウクライナは自治組織を結成。ロシア臨時政府に対して代表団を送り「ロシア連邦」内部の共和国として自治権の保証を求めた。
交渉の結果、臨時政府はウクライナの自治を認めた。
つまり、ロシアから完全に独立するのではなく、現在ロシア連邦を構成している共和国のように、
高度な自治権がある地域としての立場を求めた。

では、ウクライナ以外の地域はどうだったのか。

例えば、フィンランドは革命までロシア帝国の属国だったが、
それまでのロシア語の強制や文化的圧力、所謂ロシア化等に対する不満もあって
「完全独立」路線になる

ポーランドも同様の理由で完全独立路線へ。

そして10月
ロシアではボルシェヴィキが武装蜂起によって政権と権力を獲得したが
ウクライナはボルシェヴィキ率いるソヴィエト政府をロシア帝国の後継国家とは認めず、
「ウクライナはロシア共和国とともにロシア連邦を構成する自治共和国である」という宣言を出す。
(臨時政府≒ロシア共和国)



この宣言によって「ウクライナ人民共和国」が誕生する
尚、交渉相手となる臨時政府が既に存在しないため実質的な独立宣言であった。

ウクライナ人民共和国の国旗
現在のウクライナ国旗とは色の配置が逆である


イギリスとフランスはこの宣言を受けてウクライナの独立を認め、国家として承認し
代表団を首都キエフに送った。

その他の一次大戦協商国側の国家も次々に独立を承認した。
これは、ウクライナが単独で対ドイツとの講和を行って戦争から離脱するのを回避する狙いがあったと思われる

当然、ソヴィエト政府はウクライナの独立を認めるはずがなく、
ウクライナ人民共和国での赤軍の活動を無制限に認める事を引き換えに国家として承認するという「最後通牒」を出した
(赤軍:ソヴィエト及びボリシェヴィキを支持するロシア軍の事 後のソヴィエト国軍)

他国の軍事力を国内に制限なく置くということは、実質属国となるという事であり
「国家として認める」といった所でその後軍やら何やらを利用してソヴィエト従わせるのは目に見えていた。
ウクライナはこの要求を拒否したため、
ソヴィエト政府はウクライナへの軍事侵攻を行うことを決定。

年を跨いで1918年1月

ソヴィエト赤軍はウクライナ国内への侵攻を開始。
物量、練度、作戦、戦術あらゆる面において劣るウクライナ側は敗北と撤退を続け、
僅か9日で赤軍は国境近くから首都キエフの面するドニエプル川の反対側まで近づいていた

1月27日には首都キエフが赤軍に占領され、ウクライナ政府はキエフから脱出。

同日、ウクライナ人民共和国とドイツ・オストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国
一次大戦における「同盟国」側との単独講和条約が締結され、

ウクライナはドイツと食料補給などに協力する代償として赤軍との戦いに関する協力を取り付けた。
ドイツ軍の協力の下、再編成されたウクライナ・ドイツ軍は3月にキエフを奪還したが、
食料補給に関してトラブルが発生した。

ウクライナ政府による抗議の末、ドイツ軍はウクライナ政府を排除することに決定。

4月末にはウクライナ政府によって追放されていた帝政ロシア時代の地主や貴族がドイツ軍の支援を受けてクーデターを発生させた。

この後のウクライナ政府はドイツ軍の影響を強く受けたものに変わるが、

今度は白衛軍(ボルシェヴィキ以外の政党を支持するロシア軍やコサック軍の集まり)
やウクライナ民族主義派、ウクライナ武装革命主義派、
ボリシェヴィキ・ソヴィエト赤軍等
多数の武装集団が互いに争い潰し合う内戦に入った。

1918年末には「ウクライナ人民共和国」のクーデター政府はキエフを追い出されることとなったが、
亡命ウクライナ政府は長年「ウクライナ民族永遠の敵」とされたポーランドと手を組んで
ウクライナを取り返そうとした。

一方でこの頃にはウクライナにはボルシェヴィキ・ソヴィエトを支持する組織も居た。
ウクライナ・ソヴィエト共和国」と名乗るこの国家は、現在親ロシア派が活動を行っているドネツク州も含まれるもので、その地域に多数住むロシア人の国家としての性格を持ち合わせていた。

この結果、ポーランド・ソヴィエト戦争は
「ウクライナ・ポーランド連合」と「ロシア、ウクライナ・ソヴィエト連合」の戦いとなった

1919年から1920年に掛けて戦争は行われ、ポーランドはワルシャワを包囲されるものの機動作戦によってソヴィエト連合軍を追い返し、
最終的には「ポーランドとソヴィエトがウクライナを分割」という結果に終わり、
ポーランドに裏切られた亡命ウクライナ政府は更にフランスに逃げるも、ウクライナに戻ることは二度となかった。

結果として、ウクライナは「キエフ・ルーシ」時代以来の完全独立に失敗し、
ウクライナはソヴィエト・ロシアの影響下に置かれる
「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」となった。

因みに、ポーランドは先に書いた内容から分かる通り独立を果たし、
フィンランドは赤軍を全て追い出して独立を手にしたのであった。


かくして長い戦乱期を終えてウクライナは(他民族の支配力が強い状態ではあるが)
他の一次大戦参戦国よりも人足遅い平和を手にした。


しかし、僅か10年後、

長年の戦争などまだマシだったと思えるほど
過酷な生活を、ウクライナの人民は味わうことになる






次回、「ホロドモール」



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2014年4月19日土曜日

ロシアとウクライナ:ここまでの流れ簡易まとめ。10分で読めるはず

流石に普通の人が読めない状態になってしまっているので、
色んな人に読んで欲しい「ホロドモール」辺りまでの流れを簡単にまとめていきます




10世紀頃、ウクライナ人の民族的先祖に当たるキエフ・ルーシ人は
「ルーシ」という国家を持っていた(ロシア人も同祖なので注意)

「ルーシ」はキエフ大公国と周辺の小国に分裂するが、
これは諸侯の領地を「国」と呼んだだけで、完全に別の国家となったわけではなかった
因みにこの頃のクリミア半島はキエフ大公国とビザンチン帝国で分割されていた

モンゴル帝国が侵入。「ルーシ」を完全に飲み込んだ。
帝国は分割され、今のウクライナの位置には「ジョチ・ウルス」が残った。
クリミアのキエフ大公国の領地はジョチ・ウルスになる

モスクワ大公国がジョチ・ウルスの力を利用して力を強める
ジョチ・ウルス滅亡 領地はいくつかの国に分割され、
最終的にポーランドとモスクワ大公国に分割される
クリミアには「クリミア・ハン国」が誕生 
かつてクリミアでビザンチンが持っていた地域はオスマン帝国になる

コサックが誕生
西のコサックはポーランドに、東のコサックはモスクワ大公国に有力な軍事力として活用され、
その地位と自治権を認められた。
西のコサックはポーランドに対して反乱を起こし、「ヘーチマン国家」として独立するも
数十年で結局ポーランドとモスクワ大公国に踏み潰され分割される
モスクワ大公国はロシア帝国になる
ロシアの農奴制が年を追う毎に悪化。
極端な貴族優遇と農民冷遇が続く。
「土地に拘束された農民」という立場は何処へやら、
土地と関係なく資産として売却が可能になるようになる
19世紀も中頃、農奴制は廃止されたが、
土地の再分配等が原因で農民の生活は寧ろ苦しくなる
20世紀に入る。
ロシアも次第に工業化し、都市労働者が増えるも生活は農民同様厳しい。
日露戦争勃発。ロシアは敗北を続け、日本海海戦で敗北は決定的なものになる
平和と生活改善と代議制を求めて首都サンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
軍がデモ隊に対し発砲。デモとストライキはさらに拡大

皇帝が国会を開くことを宣言すると事態は収束するが、
国会の権限は異様に低いものであったし、皇帝の権限で解散できるものであった
12年後 一次大戦による戦時経済で国民の生活は困窮、その不満が原因で
再びサンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
今度は軍の兵士も反乱に参加。最早皇帝が止められる状況ではなくなり
皇帝は退位。
国会の議長が臨時委員会を組織、臨時政府を立てる(ロシア革命)
臨時政府の他に「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が組織され、
労働者と兵士は「ソヴィエト」を支持した。
「ソヴィエト」を構成する政党の一つ、「ボルシェヴィキ」が武装蜂起を実施
権力、政権を確保する
ボルシェヴィキ、一次大戦の全交戦国に「平和に関する布告」を布告
無賠償、無併合での講和を提案するも、ドイツは無視。
ドイツに負け続きのロシアは不利な条件での講和条約に調印せざるを得なかったが、
国民の要求であった「平和」を達成し、一次大戦から離脱した
日本、アメリカ、イタリア、イギリス、フランス等の一次大戦「協商国」側が
ロシア革命政権を倒す事も想定した干渉戦争を開始
(シベリア出兵)
帝政ロシアから独立し、誕生した
ポーランド、フィンランド、ウクライナ等の国家はボルシェヴィキに敵対。
「反革命軍」たる旧帝国派や共和主義者等が「白軍」としてボルシェヴィキと敵対
そのままロシア内戦となる
1920年頃 内戦はほぼボルシェヴィキの勝利。
ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦となる



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ロシアとウクライナ:ソヴィエトの生まれ 革命とボリシェヴィキ

ロシア革命は非常に長い割に今のウクライナとあまり関係がないので
飛ばし気味に行こうと思います

一応先に書いておくと、分かりにくいかもしれませんが
「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」は政党です。




ロシアでは農奴制が(名目上)廃止されたものの、
土地の購入代金のための負債の返済と、農奴が耕していた全ての土地が売却対象になったわけではなく、
地主の所有する土地が未だに多いこともあって
全ての農民が土地持ちの農民となることは出来ず、寧ろ全農民小作状態であった
(小作:他人の土地を借りて農業を行い、作物の一部を土地代として徴収される)

現代の日本的な言葉で訳すならば
「元農奴の農民は全員社畜(しかも超絶ブラック企業)状態」とでも言いましょうか


しかも、農奴制が廃止されただけで「貴族」と「それ以外」という明確な階級は未だ存在していて、
貴族にとってはそれまでの土地が金に変わっただけでも、
農民にとっては土地の購入代のために農奴時代より更に生活が苦しくなり、
政治への不満はむしろ高まっていった

また、農奴解放後のロシアは工業化の進展によって労働者が年に集まった時期でもあった
この労働者の変化も、革命の原因の一つとされる

更に、農奴解放問題から続く社会への不満は、
「ナロードニキ」と呼ばれる社会主義革命を唱える活動家を産んだが、

革命を恐れた皇帝はオフラーンカ(政治秘密警察)を用いて弾圧させた。






日露戦争とロシア第一革命(1905)
南下政策を続けるロシアは満州と、朝鮮に興味を持った。
当時朝鮮は積極的な親露政策を取っており、
幾つもの利権をロシアに売り渡していた。
(但し、朝鮮国内にもかなりの規模で日本に協力していた団体もあった)


一方の日本としては、ロシアの脅威を最大限遠ざけるという安全保障上の理由から、
朝鮮を勢力下に置き、可能であれば満州も確保したいと考えていた。

当時、日本とロシアの国力差は明らかに差が開いており、
(国土の広さという差もあるが)
歩兵66万対13万、砲兵16万対1万5千という圧倒的な差があり、
当時のロシア海軍は世界三位。

方や黄色人種で、国際社会に復帰してから僅か50年程の辺境国家。
日本国外の誰もがロシアが勝つと思っていた…

近いうちに開通するシベリア鉄道が全通すると
満州、朝鮮におけるロシア軍の作戦能力と投入可能戦力が大幅に伸びる
(補給能力と輸送能力が上がると数も戦闘能力も向上するため)

更に不利な状況が続くと考えた日本側は開戦を決断。
日露戦争が始まる。

朝鮮に上陸した日本軍は最初の三ヶ月、負け無しで快進撃を続けるも旅順で頭を悩ませる事になるがそれはまた別の話。

一方のロシア軍は負け続きに焦ったのと、ウラジオストクと旅順の海軍だけでは、
全戦力を投入できる日本海軍を排除することは出来ないと判断。

バルト海艦隊から戦力を抽出して派遣艦隊を編成、日本海に差し向けるのですが、
途中で英国の漁船を砲撃、撃沈してしまい英国は大激怒。
日英同盟のこともあって英国はスエズ運河の通行を拒否し、
諸外国に対してロシアに協力しないよう圧力をかけました

7ヶ月かけてようやく日本海に入った派遣艦隊。
日本の連合艦隊は戦艦4を中心に16隻に対し、
ロシアの派遣艦隊は戦艦8を中心とする全29隻。(艦隊決戦を行った戦力のみ)

この数の差では少なくとも決定的勝利は望めない。そう考えるのが普通…なのですが
蓋を開けてみれば日本側には損失無し。
方やロシア海軍は「全ての砲撃戦闘艦艇が戦闘不能又は逃亡、降伏」という酷い有り様。
これによって世界の海軍トップ3国家が「日本」「アメリカ」「イギリス」の3つに確定。

ロシア海軍は世界三位から世界6位まで降ろされたのでした

当然、これにロシア国内で反応がないわけがなく……

日本との戦争が劣勢になるにつれ戦費を浪費し、目的も不明瞭な戦争に反対する声が大きくなっていった


1905年1月、首都サンクトペテルブルクで10万人以上の労働者によるストライキとデモ行進が行われた。
基本的人権の確立や憲法の制定、日露戦争の終結等を要求するデモは皇帝に対する直訴でもあった

政府は軍を動員してデモ隊を止めるつもりだったが、デモ参加者6万人という人数によって成功せず、
軍は各地で非武装のデモ隊に対して発砲。
これにより数千人規模で死者が発生した。
これが「血の日曜日事件」である

軍の発砲によってストライキとデモは更に拡大。その規模は首都のみに留まらず、
国外のポーランドやフィンランド、ウラルより東、所謂シベリアでも行われた

皇帝は広範囲かつ大規模なストライキに発展してことを受けて
ドゥーマ(国会)の創設に応じたが、
ドゥーマの権限が小さく、実質皇帝がコントロールできるということが明らかになると
騒乱は更に激化

結局、政党結成の許可、普通選挙じの投票権対象者の拡大等を皇帝が宣言することで騒ぎは収まった。

しかしながら、皇帝はドゥーマを解散させる権限を持ち、
軍事、行政、外交を完全に支配し、立法関連のみドゥーマで審議させた。
(立法ですら皇帝が都合が悪くなると解散させていたが)

この時、最初のドゥーマの議員選挙に、後のソヴィエト国家を立てる「ボリシェヴィキ」の姿はなかった。
この頃の(政党としての)ボリシェヴィキは少数派だった。
その名前(ボリシェヴィキ、ロシア語で「少数派」)

結局、皇帝と貴族が国家権力の大半を支配する状況に変わりはなかったのであるが、
革命を狙う集団はこれによって一度は活動を低下させていった


二月革命(1917年)

1914年、サラエボ事件から第一次世界大戦が始まり、ロシアも参戦した。
「この戦争はそう長く続くはずがない」
誰もがそう思っていた。
というよりも、それまでの戦争は長く続けられることはなかった。
それまでの常識なら、一年以上戦争が続くことはあまりない。

補給や戦費の限界、防衛のための縦深の深さ等が意図せずとも戦争を長引かせなかった。
しかし、一次大戦はそれまでの戦争と違った。

世界初の先進国による国家総力戦。
なんとなく存在したルールや礼儀などが消え去った世界初の大規模戦争だった。

兵士の主体が傭兵と職業軍人で構成された時代は完全に終わり、
成年男性の国民全てが予備兵力として計上され、徴兵対象となる
国家の工業力、科学力、技術力、生産力、経済力。文字通り国力の全て。
国力の全てを戦争のために動かすことが出来た世界初の戦いだった

当然、ロシアも例外ではない。
国家経済は総力戦体制に移行し、国の全てを戦争のために動かした。
戦時経済は国民の生活を困窮させ、そのうえドイツに負け続きだったため

国民の不満は全て政府に向かっていた。



1917年2月23日
食料配給が日に日に悪化する中、ペトログラード(サンクトペテルブルグから改称)で食糧配給の改善を要求するデモが発生します。
このデモは特に暴動を伴うこともないデモでした

しかし、市内の労働者の参加が次第に増えていった。
その上、デモを鎮圧するはずの軍隊が反乱を始めた

兵士も国民、当然ながら農民や労働者階級の出身が殆どであった訳で、
負け続きで何のためにしているか分からない戦争に行くのは嫌だったことでしょう

下士官を射殺して反乱を起こす反乱兵は数万人にも達し、
首都周辺で反乱を起こしていない部隊は居ないような有り様でした


皇帝ニコライ2世は退位し、
ドゥーマの議長は議会を解散させて臨時政府を設置して政権を掌握した。

一方で各政党は政党と労働者や兵士による評議会を設置した。
評議会はロシア語でСовет ソヴィエト

国家としてのソヴィエトの名前もここから取られています。


ソヴィエトの権力は基本的に根拠が無いものだが、
労働者や(ペトログラード周辺の)兵士はソヴィエトを支持し、臨時政府の話は聞かなかった。

しかし、ペトログラード(サンクトペテルブルグ)ソヴィエトは
「臨時政府の指示はソヴィエトのものに反しない限り従うべきである」という通達をした。
国家権力を臨時政府とソヴィエトで分け合う姿勢を示した

これによって最高権力機関が2つあるという「二重権力状態」になるのであった。
(この時のロシアは明確な共産、社会主義では無かった点に注意)

7月事件

臨時政府は革命によって一次大戦から離脱したわけではなかった。
陸軍省、海軍省は臨時政府に引き継がれ、戦争は継続された。

6月にロシア陸軍は大規模攻勢を行うも、数日で頓挫
寧ろドイツから反攻を受けて前線を後退させる結果となってしまった。

攻勢が行き詰まると兵士たちの間での政府に対する不信感は更に強まり、

7月3日 首都ペトログラードの歩兵連隊は、 ペトログラード・ソヴィエト中央執行委員会が臨時政府に変わり権力を掌握するように求めるための武装デモを行なった。

しかしながら、ソヴィエト中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否。

他の地域から臨時政府とソヴィエトの決定を支持する部隊が到着すると
デモは中止され、失敗に終わった

以前、ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げていたが、
平和的な権力移行が不可能だと判断したボリシェヴィキは武装蜂起による権力奪取を決断した。

8月、臨時政府から軍の最高司令官に任命されたコルニーロフは
指揮下の部隊に対してペトログラードに進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた

軍の各方面の司令官もコルニーロフを支持したが、
ソヴィエトはこれに対向するため「対反革命人民闘争委員会」(つまりはソヴィエトの軍事部門)を設置し
ボリシェヴィキもこれに参加した。

この後ボリシェビキの中央委員会は投票を実施「武装蜂起は最早避けられない」
という宣言を採択した。

ペトログラードに接近した軍の兵士たちはソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、
上官の命令に従わず一発も発砲すること無く解散した。


10月、ペトログラード・ソヴィエトは「対反革命人民闘争委員会」を解体。
「軍事革命委員会」を設置した。
元々ペトログラード防衛のための組織だったが、
ボリシェヴィキは武装蜂起のための組織が必要だったために賛成。

トロツキーは「我々は権力奪取のための司令部を準備していると言われているが、我々はこのことを隠しはしない」
と演説し、武装蜂起の方針を認めた。

軍事革命委員会のメンバーは72人中48人がボルシェヴィキとなった。

また、軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し
臨時政府でなくソヴィエトの指示に従うことを決定した

10月25日(10月革命)
臨時政府は残った部隊を使って最後の反撃を試みた。
ボリシェヴィキの新聞の印刷所を占拠したが

軍事革命委員会はこれを受けて武力行動を開始。
印刷所を取り返し、発電所、郵便局、銀行などを制圧し、
「臨時政府は打倒された 国家権力はソヴィエトに移った」と宣言した。

最後に臨時政府の閣僚が残る冬宮殿が制圧された。
特に抵抗はなかったそうである。

これにより、二重権力体制は完全に終了。
臨時政府は終了したのであった。






く、くぅー・・・つかれましたー(ネタ抜きで)
コレでも終わってません。

資料読むのだけで3日程掛かりました。凄く複雑で何処を抜き出して描けばいいのかもよくわからないのでこんなに長くなったのかも知れません

次はソヴィエト権力の確立、ヴォリシェヴィキ政権、ソヴィエト社会主義国の誕生
そしてロシア内戦です。

まだ先は長いがウクライナの話をするのにこの当たりは飛ばせないという。

コンナモノを面白いと思う人は少ないと思いますし、ここまで読んでくれてるだけで感謝したいのですが
流石に手間かけすぎたかも…


とりあえずあとクリミア周りは最低4本ありますよ

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2014年4月14日月曜日

ロシアとウクライナ:クリミアの正当な統治者は誰?

さて、今ウクライナで一番アツいスポットであるクリミアですが、
所有者?というか統治する国家やらなんやらが結構入れ替わってます


10世紀頃、それまでの遊牧民族に変わりクリミアを支配していたのはキエフ大公国と黒海を挟んだ南にあるビザンチン帝国でクリミアを南北に分割していました

1025年のビザンチン帝国



モンゴルのルーシ侵攻によってキエフ大公国はモンゴル帝国が支配することとなり、
クリミアの支配権はモンゴル帝国から分割されたジョチ・ウルスと、
ビザンチン帝国の領域はジェノヴァとヴェネツィアが持って行きました
ジェノヴァの勢力図。右にクリミア半島と黒海があり、
イタリア半島の付け根にジェノヴァ本国がある
アドリア海に進出できていないのはもちろんヴェネツィアの領域だから。

14世紀末、ロシア(モスクワ大公国)の勢力が伸びるに連れてジョチ・ウルスは衰退
ジョチ・ウルスのうち、クリミアに居た部族も「クリミア・ハン」を興します

「ジョチ・ウルス」と「クリミア・ハン」の主要民族は「クリミア・タタール人」で、21世紀の今もクリミア人口の10%以上を占めます
タタールの人々は元々モンゴルから現在のカザフスタン辺りから移住してきた人達です

15世紀中頃のクリミア
北の白い部分が「クリミア・ハン」 ピンクが「ジェノヴァ」
緑色は「クリミアゴート族」
クリミア・ハン国はクリミアの全て、つまりジェノヴァの交易都市を抑えることは出来ませんでしたが
その後発生したハン国の内紛においてハン国はオスマン帝国に援軍を要請したため

ジェノヴァの交易都市はオスマン帝国によって攻め落とされ、ジェノヴァが持っていた都市と領域は
オスマン帝国の直轄領となり、クリミア・ハン国は援軍を得た代償としてオスマン帝国の属国となりました
しかしながら、限定外交権を持つ程高度な自治権が認められており、自主的な統治を行った

1600年頃の黒海周辺
現在のウクライナはクリミア・ハンとポーランドとモスクワ大公国に分割されている
オスマン帝国による欧州侵攻作戦が始まる1683年、
オスマン帝国はウィーン包囲を長引かせ、神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国、ロシア・ツァーリ国の4カ国による神聖同盟が誕生し、
4カ国でオスマン帝国に対向することとなり、「大トルコ戦争」が勃発。

ロシアは対オスマン戦を優位に進めて1700年、コンスタンティノープル条約
によって400年以上続けられたクリミア・ハン国はロシアへの貢納の取り立てを禁止された。
(この頃は属国クリミアハンのほうが立場は大きかったのに80年後のオスマンときたら…)

ロシアは帝政となり、更に南下政策を加速させていきます
狙うはもちろん黒海沿いの港町、できればクリミア半島のセヴァストポリが欲しい。


その後第一次露土戦争(1768-1774)でオスマン帝国はクリミア・ハン国の宗主国権を停止し、
名目上独立国とする「キュチュク・カイナルジ条約」によってクリミア・ハン国はロシアの影響下に入り、
1783年、オスマンを軍事的な脅威と捉えなくなったロシアは条約を一方的に破棄してクリミア・ハン国を併合。
(ロシア=露西亜 トルコ=土耳古 で露土戦争)

ロシアは獲得したクリミア半島のセヴァストポリに海軍艦隊と母港を置く事を決め、
クリミア半島には海軍関連のロシア人が大勢集まる原因になった

この後、第二次露土戦争(1787-1791)
第三次露土戦争(1806-1812)
第四次露土戦争(1828-1829)の全てにおいて帝政ロシアは勝利した。

クリミア戦争(1853-1856)で(フランスとイギリスと同盟して)ようやくオスマン帝国はロシアに対して勝利するも、
決定的な勝利では無かったためクリミアはロシア領のままになり、黒海の非武装化、ドナウ川河口周辺の領土の割譲という結果に終わった。
その上、その後の条約改正で非武装化はナシになった。

クリミア戦争の図。クリミア半島全土を占領していればオスマンはクリミアを取り返せたかも知れないが
補給線と戦費的に不可能だと思われる



また、クリミア戦争ではその名前の通りクリミアにイギリス・フランス・オスマン軍が上陸して戦場となり、
ロシア黒海艦隊の母港であるセヴァストポリで包囲戦が行われた。

また、この戦争によって一部のクリミア・タタール人はクリミアから逃げてしまい、
多くはオスマン帝国に移住した。

(割とどうでもいいことだが、ロシアとトルコの戦争は1568年から11回程発生しており、
第一次露土戦争は「帝政ロシアとトルコの戦い」として最初のものである)



現在のクリミアの民族と言語とか

この後、クリミア自治ソビエト社会主義共和国の誕生とか
独ソ戦でのドイツのクリミア上陸とかあるんですけど省略しまして、
クリミアとウクライナの民族の分布とかを見て行きましょう

まずはウクライナにおいてウクライナ語を母国語としする人たちの割合の図なんですが
ウクライナ全土の図 色が濃いほどウクライナ語が母語の人が多い
クリミア半島を見てみると真っ白なんですよね、2割下回ってる。

逆に、ロシア語はというと
ウクライナからロシアとの国境沿いにかけてかなり濃くなっています
(ウクライナ語のものと割合と色の関係が違うことに注意)
この図で色が濃い地域と現在独立運動が発生している地域はだいたい一致します


クリミアの人口の58%はロシアに帰属意識を持つロシア人で、
次にウクライナ24%、クリミア・タタール人が12%と続きます

これは、クリミアが帝政ロシアの支配下になってから長年貴重な不凍港として、
黒海艦隊の母港として重要視されてきた結果だと思われます

また、最近色々と問題になっている理由としては、1992年のクリミア州議会による独立宣言が妨害されたこと、
ソビエトの誕生によって東ウクライナの民族問題が90年以上先送りされたことが上げられるでしょう

逆に言えば、二月革命後にソビエトロシアがウクライナに来なけりゃ
二次大戦前には東ウクライナの国境線は何かしらの動きがあったと思われます


まあ、その辺りの詳しい話は次回、「帝政ロシアの終わり ロシア革命から内戦へ」で解説しましょう


(そもそもクリミアがウクライナであると主張できる要素があまり考えられないんですよねえ
タタール人はその前から居たから当然として、
コサックやヘーチマン国家、ルーシ人を由来とするウクライナ民族がクリミアを支配したこと無いし、
そもそも二月革命まで国家なき民族だったし)


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