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2014年4月27日日曜日

ロシアとウクライナ:戦前戦後ソビエト時代

大粛清はウクライナとあまり関係がないので
大戦から崩壊前までのソ連を簡単に確認していきましょう。




1930年代後半に行われたスターリンによる大粛清は数百万人規模の犠牲者を出し、
赤軍の将校や共産党員すら巻き込んだ結果、
国力と軍事力の低下を招いた。

そして、軍事力と国力が低下したままドイツはソ連に対して侵攻を開始、
独ソ戦が始まる。

ソ連の工業生産力の殆どはモスクワより西側、
つまりドイツ、ポーランド側に偏っており、
特に旧首都サンクトペテルイブルグ改めレニングラード近辺に集中しており、
ドイツもソ連の工業力を削ぐべくレニングラードを包囲するよう進軍した

1941年、レニングラードは包囲された結果、補給が途絶。
都市の食料事情は一気に悪化していき、
冬になると燃料不足も手伝って飢餓による大量死が発生し始める。

当然、市民は死体を食らうに至ったが、その有り様は10年前のウクライナより更に悲惨なものだった

「人肉を売る店」すら有り、子供の人肉は美味いとされ、市内で子供の誘拐と殺人が横行。
結果レニングラードは100万人近い市民が死亡したとされる

冬に近隣の湖が凍結して通行可能になったのを利用して市民を市外へ運び、

生産力の保護を図るため、
レニングラードからモスクワより更に東、ウラル山脈より東に工場を疎開させた。



初期は押され気味だったものの縦深防御の成功によるドイツ軍補給線の疲弊と、
「必要ならば人命を消費する」というソ連らしい戦い方の結果、
ドイツは押し戻され始める。

第一次五カ年計画時の急速な工業化無しには押し戻すことも困難だったと言われており、
『ホロドモール』が無駄死、虐殺であるという主張に対する反論でたまに使われる。




因みに、スターリンは独ソ戦時に「一歩も下がるな!(Not one step Back!)」という命令を出している

これは、督戦隊を各部隊に配置し、交代してくる味方の「臆病者」を射殺する命令で、
徴兵したての士気が低い兵士を後退させないための命令だった。

よく言われる「銃は二人に一丁」というのは事実だったか怪しいのだが、
「無断で後退した臆病者には督戦隊が『懲罰』を与える」というのは事実であった

足りないものは人命で補うというのはこの辺りにも現れている。



ソビエトはアメリカからの数多くの物資の供給と
(色んな物を犠牲にして得た)強力な工業生産力に支えられてドイツに対して物量戦を展開。
ベルリンを占領し、ソ連が侵攻する前に日本も降伏したため、二次大戦は終了した。

独ソ戦の死者は2500万人、ウクライナでは1000万人近くが死亡したとされ、
これは当時のウクライナ人口の2割に当たる



大戦が終わると、核戦力を背景にした資本主義と共産主義の戦い、冷戦が始まる。
ドイツはソ連占領地域とアメリカ、フランス、イギリス占領地域で分割され、
東西ドイツとして冷戦が終わるまで分断国家で在り続けた

弾道ミサイル技術の展示会として使われた宇宙開発競争、
核戦力の配備競争、核開発競争、
兵器の開発競争など、自陣営が有利に立つために競争を繰り広げた。

西側諸国は二次大戦で見せつけられたソ連の『必要ならば人命を消費する』という物量戦を特に警戒し、
それらの侵攻を防ぐために戦場で使える核兵器、戦術核兵器の開発を急いだ
(その結果いくつかの珍兵器が生まれてしまったが)


ソ連はアメリカを始めとする西側諸国に対して、
軍事技術に関しては同水準のものを開発し続けた

しかし、ソ連の国力は大戦前から軍事生産や軍事研究に偏っており、
軍事技術は西側諸国に劣らないものであっても、
民生技術においては西側には遠く及ばず、長年国民の生活は改善しなかった。

大戦から時間が経つに連れて西側との経済力の差は大きく開いていった。

また、ソ連の食料生産は集団農業の影響で相も変わらず生産量が上がっておらず、
自給率が100%を下回っていたため、

冷戦で最大の対立国であったアメリカから食料を輸入せざるを得ず、
西側に輸出できるものが天然資源以外無いソ連は対外債務が日に日に増えていった。
にも関わらず、東側諸国に対する経済支援は外交上継続せざるを得ず、

冷戦におけるソ連の敗北は次第に確実なものとなる


1979年、アフガニスタンの共産主義政権に対する武力抵抗運動が勃発、
アフガニスタン政府軍だけでは抑えられなくなてしまったため、
政権はソ連に軍事貫入を要請。

ソ連はアフガニスタンに侵攻を開始した。
今現在まで40年近く続くアフガン紛争の始まりである。

抵抗運動は「ムジャヒディーン」と呼ばれた。
このムジャヒディーンの中には後に国際テロ組織「アルカーイダ」の指導者となる
ウサーマ・ビン=ラーディンも含まれていた。

平原と丘陵地帯(というかヨーロッパ)における正規軍相手の電撃戦と総力戦を想定していたソ連軍は
アフガニスタンの山岳戦に苦戦。

更に、アメリカやパキスタンの支援によって
ムジャーヒディーンは軍事訓練を受け、数多くの兵器や武器を受け取り、
山岳戦に悩むソ連に対して優位に戦った。

戦闘ヘリによる掃討作戦が実施された際に対空ミサイル「スティンガー」を
アメリカがムジャヒディーンに供給したのは有名な話である

1988年まで続くアフガニスタン侵攻による多額の戦費は、ただでさえ軍事費に偏っていたソ連の財政を更に苦しい物にして、ソ連を解体する原因ともなった



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