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2014年4月19日土曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエトの生まれ 革命とボリシェヴィキ

ロシア革命は非常に長い割に今のウクライナとあまり関係がないので
飛ばし気味に行こうと思います

一応先に書いておくと、分かりにくいかもしれませんが
「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」は政党です。




ロシアでは農奴制が(名目上)廃止されたものの、
土地の購入代金のための負債の返済と、農奴が耕していた全ての土地が売却対象になったわけではなく、
地主の所有する土地が未だに多いこともあって
全ての農民が土地持ちの農民となることは出来ず、寧ろ全農民小作状態であった
(小作:他人の土地を借りて農業を行い、作物の一部を土地代として徴収される)

現代の日本的な言葉で訳すならば
「元農奴の農民は全員社畜(しかも超絶ブラック企業)状態」とでも言いましょうか


しかも、農奴制が廃止されただけで「貴族」と「それ以外」という明確な階級は未だ存在していて、
貴族にとってはそれまでの土地が金に変わっただけでも、
農民にとっては土地の購入代のために農奴時代より更に生活が苦しくなり、
政治への不満はむしろ高まっていった

また、農奴解放後のロシアは工業化の進展によって労働者が年に集まった時期でもあった
この労働者の変化も、革命の原因の一つとされる

更に、農奴解放問題から続く社会への不満は、
「ナロードニキ」と呼ばれる社会主義革命を唱える活動家を産んだが、

革命を恐れた皇帝はオフラーンカ(政治秘密警察)を用いて弾圧させた。






日露戦争とロシア第一革命(1905)
南下政策を続けるロシアは満州と、朝鮮に興味を持った。
当時朝鮮は積極的な親露政策を取っており、
幾つもの利権をロシアに売り渡していた。
(但し、朝鮮国内にもかなりの規模で日本に協力していた団体もあった)


一方の日本としては、ロシアの脅威を最大限遠ざけるという安全保障上の理由から、
朝鮮を勢力下に置き、可能であれば満州も確保したいと考えていた。

当時、日本とロシアの国力差は明らかに差が開いており、
(国土の広さという差もあるが)
歩兵66万対13万、砲兵16万対1万5千という圧倒的な差があり、
当時のロシア海軍は世界三位。

方や黄色人種で、国際社会に復帰してから僅か50年程の辺境国家。
日本国外の誰もがロシアが勝つと思っていた…

近いうちに開通するシベリア鉄道が全通すると
満州、朝鮮におけるロシア軍の作戦能力と投入可能戦力が大幅に伸びる
(補給能力と輸送能力が上がると数も戦闘能力も向上するため)

更に不利な状況が続くと考えた日本側は開戦を決断。
日露戦争が始まる。

朝鮮に上陸した日本軍は最初の三ヶ月、負け無しで快進撃を続けるも旅順で頭を悩ませる事になるがそれはまた別の話。

一方のロシア軍は負け続きに焦ったのと、ウラジオストクと旅順の海軍だけでは、
全戦力を投入できる日本海軍を排除することは出来ないと判断。

バルト海艦隊から戦力を抽出して派遣艦隊を編成、日本海に差し向けるのですが、
途中で英国の漁船を砲撃、撃沈してしまい英国は大激怒。
日英同盟のこともあって英国はスエズ運河の通行を拒否し、
諸外国に対してロシアに協力しないよう圧力をかけました

7ヶ月かけてようやく日本海に入った派遣艦隊。
日本の連合艦隊は戦艦4を中心に16隻に対し、
ロシアの派遣艦隊は戦艦8を中心とする全29隻。(艦隊決戦を行った戦力のみ)

この数の差では少なくとも決定的勝利は望めない。そう考えるのが普通…なのですが
蓋を開けてみれば日本側には損失無し。
方やロシア海軍は「全ての砲撃戦闘艦艇が戦闘不能又は逃亡、降伏」という酷い有り様。
これによって世界の海軍トップ3国家が「日本」「アメリカ」「イギリス」の3つに確定。

ロシア海軍は世界三位から世界6位まで降ろされたのでした

当然、これにロシア国内で反応がないわけがなく……

日本との戦争が劣勢になるにつれ戦費を浪費し、目的も不明瞭な戦争に反対する声が大きくなっていった


1905年1月、首都サンクトペテルブルクで10万人以上の労働者によるストライキとデモ行進が行われた。
基本的人権の確立や憲法の制定、日露戦争の終結等を要求するデモは皇帝に対する直訴でもあった

政府は軍を動員してデモ隊を止めるつもりだったが、デモ参加者6万人という人数によって成功せず、
軍は各地で非武装のデモ隊に対して発砲。
これにより数千人規模で死者が発生した。
これが「血の日曜日事件」である

軍の発砲によってストライキとデモは更に拡大。その規模は首都のみに留まらず、
国外のポーランドやフィンランド、ウラルより東、所謂シベリアでも行われた

皇帝は広範囲かつ大規模なストライキに発展してことを受けて
ドゥーマ(国会)の創設に応じたが、
ドゥーマの権限が小さく、実質皇帝がコントロールできるということが明らかになると
騒乱は更に激化

結局、政党結成の許可、普通選挙じの投票権対象者の拡大等を皇帝が宣言することで騒ぎは収まった。

しかしながら、皇帝はドゥーマを解散させる権限を持ち、
軍事、行政、外交を完全に支配し、立法関連のみドゥーマで審議させた。
(立法ですら皇帝が都合が悪くなると解散させていたが)

この時、最初のドゥーマの議員選挙に、後のソヴィエト国家を立てる「ボリシェヴィキ」の姿はなかった。
この頃の(政党としての)ボリシェヴィキは少数派だった。
その名前(ボリシェヴィキ、ロシア語で「少数派」)

結局、皇帝と貴族が国家権力の大半を支配する状況に変わりはなかったのであるが、
革命を狙う集団はこれによって一度は活動を低下させていった


二月革命(1917年)

1914年、サラエボ事件から第一次世界大戦が始まり、ロシアも参戦した。
「この戦争はそう長く続くはずがない」
誰もがそう思っていた。
というよりも、それまでの戦争は長く続けられることはなかった。
それまでの常識なら、一年以上戦争が続くことはあまりない。

補給や戦費の限界、防衛のための縦深の深さ等が意図せずとも戦争を長引かせなかった。
しかし、一次大戦はそれまでの戦争と違った。

世界初の先進国による国家総力戦。
なんとなく存在したルールや礼儀などが消え去った世界初の大規模戦争だった。

兵士の主体が傭兵と職業軍人で構成された時代は完全に終わり、
成年男性の国民全てが予備兵力として計上され、徴兵対象となる
国家の工業力、科学力、技術力、生産力、経済力。文字通り国力の全て。
国力の全てを戦争のために動かすことが出来た世界初の戦いだった

当然、ロシアも例外ではない。
国家経済は総力戦体制に移行し、国の全てを戦争のために動かした。
戦時経済は国民の生活を困窮させ、そのうえドイツに負け続きだったため

国民の不満は全て政府に向かっていた。



1917年2月23日
食料配給が日に日に悪化する中、ペトログラード(サンクトペテルブルグから改称)で食糧配給の改善を要求するデモが発生します。
このデモは特に暴動を伴うこともないデモでした

しかし、市内の労働者の参加が次第に増えていった。
その上、デモを鎮圧するはずの軍隊が反乱を始めた

兵士も国民、当然ながら農民や労働者階級の出身が殆どであった訳で、
負け続きで何のためにしているか分からない戦争に行くのは嫌だったことでしょう

下士官を射殺して反乱を起こす反乱兵は数万人にも達し、
首都周辺で反乱を起こしていない部隊は居ないような有り様でした


皇帝ニコライ2世は退位し、
ドゥーマの議長は議会を解散させて臨時政府を設置して政権を掌握した。

一方で各政党は政党と労働者や兵士による評議会を設置した。
評議会はロシア語でСовет ソヴィエト

国家としてのソヴィエトの名前もここから取られています。


ソヴィエトの権力は基本的に根拠が無いものだが、
労働者や(ペトログラード周辺の)兵士はソヴィエトを支持し、臨時政府の話は聞かなかった。

しかし、ペトログラード(サンクトペテルブルグ)ソヴィエトは
「臨時政府の指示はソヴィエトのものに反しない限り従うべきである」という通達をした。
国家権力を臨時政府とソヴィエトで分け合う姿勢を示した

これによって最高権力機関が2つあるという「二重権力状態」になるのであった。
(この時のロシアは明確な共産、社会主義では無かった点に注意)

7月事件

臨時政府は革命によって一次大戦から離脱したわけではなかった。
陸軍省、海軍省は臨時政府に引き継がれ、戦争は継続された。

6月にロシア陸軍は大規模攻勢を行うも、数日で頓挫
寧ろドイツから反攻を受けて前線を後退させる結果となってしまった。

攻勢が行き詰まると兵士たちの間での政府に対する不信感は更に強まり、

7月3日 首都ペトログラードの歩兵連隊は、 ペトログラード・ソヴィエト中央執行委員会が臨時政府に変わり権力を掌握するように求めるための武装デモを行なった。

しかしながら、ソヴィエト中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否。

他の地域から臨時政府とソヴィエトの決定を支持する部隊が到着すると
デモは中止され、失敗に終わった

以前、ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げていたが、
平和的な権力移行が不可能だと判断したボリシェヴィキは武装蜂起による権力奪取を決断した。

8月、臨時政府から軍の最高司令官に任命されたコルニーロフは
指揮下の部隊に対してペトログラードに進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた

軍の各方面の司令官もコルニーロフを支持したが、
ソヴィエトはこれに対向するため「対反革命人民闘争委員会」(つまりはソヴィエトの軍事部門)を設置し
ボリシェヴィキもこれに参加した。

この後ボリシェビキの中央委員会は投票を実施「武装蜂起は最早避けられない」
という宣言を採択した。

ペトログラードに接近した軍の兵士たちはソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、
上官の命令に従わず一発も発砲すること無く解散した。


10月、ペトログラード・ソヴィエトは「対反革命人民闘争委員会」を解体。
「軍事革命委員会」を設置した。
元々ペトログラード防衛のための組織だったが、
ボリシェヴィキは武装蜂起のための組織が必要だったために賛成。

トロツキーは「我々は権力奪取のための司令部を準備していると言われているが、我々はこのことを隠しはしない」
と演説し、武装蜂起の方針を認めた。

軍事革命委員会のメンバーは72人中48人がボルシェヴィキとなった。

また、軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し
臨時政府でなくソヴィエトの指示に従うことを決定した

10月25日(10月革命)
臨時政府は残った部隊を使って最後の反撃を試みた。
ボリシェヴィキの新聞の印刷所を占拠したが

軍事革命委員会はこれを受けて武力行動を開始。
印刷所を取り返し、発電所、郵便局、銀行などを制圧し、
「臨時政府は打倒された 国家権力はソヴィエトに移った」と宣言した。

最後に臨時政府の閣僚が残る冬宮殿が制圧された。
特に抵抗はなかったそうである。

これにより、二重権力体制は完全に終了。
臨時政府は終了したのであった。






く、くぅー・・・つかれましたー(ネタ抜きで)
コレでも終わってません。

資料読むのだけで3日程掛かりました。凄く複雑で何処を抜き出して描けばいいのかもよくわからないのでこんなに長くなったのかも知れません

次はソヴィエト権力の確立、ヴォリシェヴィキ政権、ソヴィエト社会主義国の誕生
そしてロシア内戦です。

まだ先は長いがウクライナの話をするのにこの当たりは飛ばせないという。

コンナモノを面白いと思う人は少ないと思いますし、ここまで読んでくれてるだけで感謝したいのですが
流石に手間かけすぎたかも…


とりあえずあとクリミア周りは最低4本ありますよ

Monacoin:MJnb1JP4sAtbBKGwDXi1ZzLBAoh7cCQmy5

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