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2014年4月21日月曜日

ロシアとウクライナ:ボルシェヴィキのソヴィエト/ウクライナの復活と敗北

1917年2月。
帝政ロシアは倒された。
ウクライナは独立を勝ち取るチャンスを得た。

ウクライナは自治組織を結成。ロシア臨時政府に対して代表団を送り「ロシア連邦」内部の共和国として自治権の保証を求めた。
交渉の結果、臨時政府はウクライナの自治を認めた。
つまり、ロシアから完全に独立するのではなく、現在ロシア連邦を構成している共和国のように、
高度な自治権がある地域としての立場を求めた。

では、ウクライナ以外の地域はどうだったのか。

例えば、フィンランドは革命までロシア帝国の属国だったが、
それまでのロシア語の強制や文化的圧力、所謂ロシア化等に対する不満もあって
「完全独立」路線になる

ポーランドも同様の理由で完全独立路線へ。

そして10月
ロシアではボルシェヴィキが武装蜂起によって政権と権力を獲得したが
ウクライナはボルシェヴィキ率いるソヴィエト政府をロシア帝国の後継国家とは認めず、
「ウクライナはロシア共和国とともにロシア連邦を構成する自治共和国である」という宣言を出す。
(臨時政府≒ロシア共和国)



この宣言によって「ウクライナ人民共和国」が誕生する
尚、交渉相手となる臨時政府が既に存在しないため実質的な独立宣言であった。

ウクライナ人民共和国の国旗
現在のウクライナ国旗とは色の配置が逆である


イギリスとフランスはこの宣言を受けてウクライナの独立を認め、国家として承認し
代表団を首都キエフに送った。

その他の一次大戦協商国側の国家も次々に独立を承認した。
これは、ウクライナが単独で対ドイツとの講和を行って戦争から離脱するのを回避する狙いがあったと思われる

当然、ソヴィエト政府はウクライナの独立を認めるはずがなく、
ウクライナ人民共和国での赤軍の活動を無制限に認める事を引き換えに国家として承認するという「最後通牒」を出した
(赤軍:ソヴィエト及びボリシェヴィキを支持するロシア軍の事 後のソヴィエト国軍)

他国の軍事力を国内に制限なく置くということは、実質属国となるという事であり
「国家として認める」といった所でその後軍やら何やらを利用してソヴィエト従わせるのは目に見えていた。
ウクライナはこの要求を拒否したため、
ソヴィエト政府はウクライナへの軍事侵攻を行うことを決定。

年を跨いで1918年1月

ソヴィエト赤軍はウクライナ国内への侵攻を開始。
物量、練度、作戦、戦術あらゆる面において劣るウクライナ側は敗北と撤退を続け、
僅か9日で赤軍は国境近くから首都キエフの面するドニエプル川の反対側まで近づいていた

1月27日には首都キエフが赤軍に占領され、ウクライナ政府はキエフから脱出。

同日、ウクライナ人民共和国とドイツ・オストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国
一次大戦における「同盟国」側との単独講和条約が締結され、

ウクライナはドイツと食料補給などに協力する代償として赤軍との戦いに関する協力を取り付けた。
ドイツ軍の協力の下、再編成されたウクライナ・ドイツ軍は3月にキエフを奪還したが、
食料補給に関してトラブルが発生した。

ウクライナ政府による抗議の末、ドイツ軍はウクライナ政府を排除することに決定。

4月末にはウクライナ政府によって追放されていた帝政ロシア時代の地主や貴族がドイツ軍の支援を受けてクーデターを発生させた。

この後のウクライナ政府はドイツ軍の影響を強く受けたものに変わるが、

今度は白衛軍(ボルシェヴィキ以外の政党を支持するロシア軍やコサック軍の集まり)
やウクライナ民族主義派、ウクライナ武装革命主義派、
ボリシェヴィキ・ソヴィエト赤軍等
多数の武装集団が互いに争い潰し合う内戦に入った。

1918年末には「ウクライナ人民共和国」のクーデター政府はキエフを追い出されることとなったが、
亡命ウクライナ政府は長年「ウクライナ民族永遠の敵」とされたポーランドと手を組んで
ウクライナを取り返そうとした。

一方でこの頃にはウクライナにはボルシェヴィキ・ソヴィエトを支持する組織も居た。
ウクライナ・ソヴィエト共和国」と名乗るこの国家は、現在親ロシア派が活動を行っているドネツク州も含まれるもので、その地域に多数住むロシア人の国家としての性格を持ち合わせていた。

この結果、ポーランド・ソヴィエト戦争は
「ウクライナ・ポーランド連合」と「ロシア、ウクライナ・ソヴィエト連合」の戦いとなった

1919年から1920年に掛けて戦争は行われ、ポーランドはワルシャワを包囲されるものの機動作戦によってソヴィエト連合軍を追い返し、
最終的には「ポーランドとソヴィエトがウクライナを分割」という結果に終わり、
ポーランドに裏切られた亡命ウクライナ政府は更にフランスに逃げるも、ウクライナに戻ることは二度となかった。

結果として、ウクライナは「キエフ・ルーシ」時代以来の完全独立に失敗し、
ウクライナはソヴィエト・ロシアの影響下に置かれる
「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」となった。

因みに、ポーランドは先に書いた内容から分かる通り独立を果たし、
フィンランドは赤軍を全て追い出して独立を手にしたのであった。


かくして長い戦乱期を終えてウクライナは(他民族の支配力が強い状態ではあるが)
他の一次大戦参戦国よりも人足遅い平和を手にした。


しかし、僅か10年後、

長年の戦争などまだマシだったと思えるほど
過酷な生活を、ウクライナの人民は味わうことになる






次回、「ホロドモール」



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