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左にあるラベル毎に続き物の話をまとめています

2014年5月15日木曜日

ロシアとウクライナ:ソビエト崩壊とクリミアのウクライナへの編入。

さて、前々回ベルリンの壁が茶番でぶっ壊れた話をしましたが、
では、ソビエト本体はどのように潰れたのか。今回はそれの話です

ソビエト崩壊の話に入る前に、戦後のクリミアの話を少ししておきましょう
大戦中、ドイツ軍がクリミアに上陸し、3年間に渡って戦闘を繰り広げました

戦後、ソ連政府はクリミア半島にジョチ・ウルス、クリミア・ハンの頃から住んでいた
クリミア・タタール人を中央アジアへ強制移住させました。
戦中ドイツに協力した者が居たことを理由に民族ごとシベリア送りにされたのです。
(実際に送られたのはソビエトの中央アジア地域ですが広義のシベリア送りでもあります)

移住の過程で約半数に当たる10万人が死亡したとされますが、
スターリン時代のソ連では「その程度か」で済むレベルでした。
1940年代までのソ連において大量死は民族問わずそこまで珍しいものではないです

1954年、スターリンの死後クリミア州はロシア・ソヴィエト共和国から
ウクライナ・ソヴィエト共和国に表向きの理由は
「地理的、経済的関係がウクライナと密接であるため」という理由で、
実際のところはソヴィエトを主導するロシアに対してのウクライナ国民感情を抑えるため、
友好の証として割譲されました。

当時はどちらもソヴィエト連邦であったため、この割譲にはそれ以上の意味はないものでした。
その意味のないものが今年になって大問題になったわけですが。



ソ連の限界


1980年台後半のソ連。


肥大する軍事予算、それでも追いつけないアメリカとの軍事力差、
停滞する経済、慢性化する汚職に、不足する物資とそれに不満を持つ人民。
更に東欧諸国を始めとする社会主義各国への経済支援の負担

「労働者の祖国」と称しながら実際は労働者、
特に農業従事者を冷遇し、抑圧し支配するというのがソ連であり、
革命の原因であった農奴制からの農民の不満のことを考えると何のための革命だったのか という考えが浮かびます


ソビエト社会主義が限界を迎えていたのは誰の目にも明らかでした

ソ連末期、モスクワ市内の店舗
明らかに物資の種類が少ないのはやはり社会主義が原因でもあるが、
それでも1960年台と比べると明らかに減っている。
首都ですらこの有り様なので、地方は更に劣悪な状況であることは言うまでもない


ゴルバチョフはペレストロイカ、つまり再改革とグラスノスチ、情報公開を進め
急激な改革を行わないことで保守派の反発を抑えつつ社会主義からの順次脱却を図っていました。

東欧諸国にも圧力をかけ、ポーランド、ハンガリー等が一党独裁体制から脱却し民主化していきました

但し、ゴルバチョフはソビエト連邦は解体せず、当時の連邦を維持したまま
極端な中央集権体制だったそれまでのソ連から脱却し、
地方分権と新たな連邦条約を結び、『新ソビエト』とも言える新たな連邦制を想定していました。

そのため、エストニア、ラトビア、リトアニアという所謂「バルト三国」の独立要求に関しては武力鎮圧を行う立場を取りました。
因みに、この3ヶ国は歴史的に深い関係性があるわけではなく、
強いて言うなら「ロシアに侵略され、『小銭扱い』される運命共同体」である事くらいです

しかしながら、ロシアの動きによって同じような運命をたどることになるバルト三国は
ソ連崩壊に際して協力体制を持っていました。

1989年の3カ国に渡る「人間の鎖」は
3ヶ国の共産党が計画し、実施する際にもルートを周到に調べ上げ、
参加者を輸送するためにバスを手配したり、参加者全員がラジオ放送聞くことで調整したりなどの大規模な計画のもと実施されました

つまるところバルト三国の共産党、もとい自治政府の政治的メッセージだったわけです


ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチは一定の効果を上げていましたが、
ゴルバチョフは保守派の反発を抑えるため、急速な改革は行わない方針で、
経済政策に関して、保守派との妥協点を見いだせず、行き詰まってしまいました。

そんな中でボリス・エリツィンが台頭してきます。
保守派との妥協などせずに切り捨てて、改革を早急に進めるべきであるというのがエリツィンの考えでした

1990年、国民世論は既にエリツィンらの急進改革派支持に傾いており、
保守派の話など最早誰も誰も聞かないようになっていました

1991年の大統領選においてエリツィンが勝利し、
保守派の候補者が惨敗したことが更に保守派を追い詰め、クーデターを発生させることになりました
(ソヴィエト連邦の大統領ではなく、ロシア共和国の大統領である点に注意。
当時のソヴィエト連邦大統領はゴルバチョフ)

ソ連8月クーデター・8月革命

ゴルバチョフはソヴィエトの新連邦条約を準備していました。

この新連邦条約は各主権共和国の権限を拡大し、ソヴィエトをより「ゆるい」繋がりにするものでしたが、
保守派はこれを「バルト三国などの国を完全独立させる原因になりかねない」という主張をしてこの条約に反対しました。

調印の予定日は8月20日、クーデターはその前日に起きたのです

1991年8月19日、
クリミアの別荘で休暇中だったゴルバチョフは保守派だった副大統領に
副大統領への全権委任と非常事態宣言の受け入れを要求されるも拒否し、
別荘に軟禁されました

保守派は「ゴルバチョフ大統領は体調不良で執務不能なため副大統領が執務を引き継ぐ」と発表。
モスクワ中心部に戦車が出現し、国営放送は保守派に占拠された。
(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。)
クレムリンの前に展開するT-80UD



エリツィンは記者会見を行い「クーデターは違憲、保守派の行動は非合法」として
ゴルバチョフ本人に全権委任の証言をさせることを要求し、
エリツィンは「ベールイ・ドーム」付近の戦車兵を説得して寝返らせ、
そのまま戦車の上に乗って演説を始めた。
エリツィンの呼びかけに集まった市民らによって「ベールイ・ドーム」の周囲にバリケードが設置され、

市民は火炎瓶や銃を持ち寄り、保守派との臨戦態勢でベールイ・ドームに陣取った。
参加した市民の総数は翌日には10万人にもなった。

これらはテレビ・ラジオ放送や新聞が利用できない状態で集まったもので、
保守派の監視がインターネットに及ばなかったために西側諸国に情報が伝わりそこからモスクワに情報が戻ったとも言われている

ベールイ・ドームの前の戦車の上で演説を行うエリツィン
ベールイ・ドームはロシア語で「白い建物」 要はホワイトハウスである
その後クーデター側からの寝返りも多発し、
ストライキ、デモも国内各地で発生。国民が保守派を支持していないのは誰の目にも明らかであった
また、市民が保守派の戦車部隊と衝突。戦車2台を撃破したが十数人の死者が出た。

結局、クーデターは失敗に終わり、
クーデターの首謀者は当然拘束されることとなった。

しかし、その首謀者というのがゴルバチョフの側近ばかりであったため、
皮肉にもゴルバチョフの信頼も失墜、それに伴い共産党の信頼も失墜した

8月末にはモスクワ中心街で共産党活動を禁じる大統領令にエリツィンが署名、

12月、ゴルバチョフは「ソビエト連邦構成共和国離脱法」を成立させた後、
ソ連大統領を辞任、党の中央委員会を解散させ実質的にソ連共産党は解散となった
(この「ソビエト連邦構成共和国離脱法」を根拠にしてチェチェン紛争が始まるわけですが)

因みに、このクーデターの間にバルト三国は独立宣言を行い、
クーデター後にロシアに独立承認された。

ソ連は「新連邦条約」よりもさらにゆるい繋がりとして「独立国家共同体(CIS)」へと変化して
連邦は消滅した。



次回は崩壊後のウクライナと現在のウクライナの話です。

おそらく次回でロシアとウクライナは最後の記事になると思います

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2014年5月5日月曜日

ちょっとオカルトじみた話「延々と続くブザー音 The Buzzer」

ロシアとウクライナの記事の途中ですが、
ちょっと面白い話を見かけたので記事にしてみようかと思います

最も、これもソ連やロシアに関わることなのですが。






世の中には、様々な周波数の電波が飛んでいます


我々が普段使う携帯電話の電波は700-2000MHzという波長の短い電波を使い、
テレビ放送や無線LANと言った身近で電波を用いる機器は大体この領域を使用します
「UHF」と言われる領域です

これは、波長が短いためにアンテナを小さく出来、
波長がこれ以上短すぎると電波の直進性が高すぎて遮蔽物の裏などに電波が届かず、
移動体通信等の用途には向かないことが原因です。

このため、電波帯域の中で一番人気のある領域であり、
「電波の帯域は有限な資源だ」などという主張は、実用で最も価値のある電波帯がこの領域に集中してるため言われることです。

テレビ放送がアナログからデジタルになったのも、
データの効率を向上させることでテレビ放送で使用している領域を圧縮し
他の用途に電波を利用するためです。
(だったらNOTTVなんて誰得な赤字サービスはやめて欲しいもんですが、300MHz以下は使うのが難しいのも事実です)


で、今回の話は「短波放送」に関するものです
短波というのは波長が(UHFに比べて)長いため、アンテナが大きくなってしまうという特徴があります。
短波よりさらに波長の長いAMラジオ放送を受診するためにはFM放送よりも大きな受信機が必要なため、
携帯電話や音楽プレイヤーにFM放送の受信機能はあってもAMラジオ放送の受信機能が無いのはこの辺りに理由があります。


さて、AM放送もそうなのですが、短波放送にはとある特徴がありまして
それは、『電離層で反射する』というものです
MFに相当するのが日本のAMラジオ放送 昼間は反射しない
この特徴、昼と夜で反射する周波数などが変わってくるのですがその辺りは割愛します
とにかく、この特徴を利用して短波を大気に反射させることにより、
遠くでも短波放送を受信することが出来るわけです

最も、距離や気温、日照、太陽の活動等、電波放射角によって受信可能地域は変わりますが。

この「遠くでも聞ける」という特徴を利用して、
20世紀から国際放送で利用されてきました。
日本でもNHKが国際放送を短波で行っています。

また、この短波による国際放送を受信する「BCL」が流行ったこともあるそうです
近頃は受信するためのラジオそのものがあまり売っていないそうですが。



冷戦時代は西側諸国からの情報を短波放送で送ったため、
東側の人は短波ラジオを持っているだけでNKVD(秘密警察)が家に来る。ということもあったようです

逆に、ソ連などの東側諸国からも革命的、共産主義的な情報を送信するため、盛んに短波放送が行われていました。
東側の音楽を聞くために短波放送を聞いていた人も居たみたいですね

現在でも、情報封鎖が行われている北朝鮮に対してニュースを届けるため、
朝鮮語放送が韓国から、
日本国内では、拉致被害者向け日本語放送「しおかぜ」「ふるさとの風」が行われています。
北朝鮮国内ではジャミングされて聞けないことが多々あるようですが。





さて、前置きが長くなりましたが
今回の話のメインはとある放送局に関するものです。

その放送局のコールサインは「UVB-76」
周波数は4625KHz

正式な放送局の名称は不明ながら、「The Buzzer(ザ・ブザー)」という愛称があります
この愛称は短波放送の内容に由来するもので、
その内容というのが

(動画に表示されている画像は電波を発している施設の航空写真です)
あと、視聴注意。機械的ですが結構不気味なので。


これです、このブザーをほぼ1日中発していて一日50分間点検のために停止する以外は
常にブザーを鳴らし続けているのです。

これが「ザ・ブザー」の由来です。
1982年から2秒おきに電子音を放送していたのですが、1990年に動画のブザー音に切り替わったそうです。

そして、この放送は1982年から現在、2014年までの32年間
今でも続けられています。



UVB-76を放送していた施設


この不気味な放送、なんの為に使われているのかという議論が昔から(主にネットで)
繰り返されてきました。

電波の受信方向から電波を発している施設の場所は特定できたものの、
軍の施設であるため当然入ることは出来ず、
その外観と放送内容、周波数から様々な説が出てきました

1:ある種のデッドマン装置のような、設備の障害検知用の生存信号ではないか

つまり、装置設備が正常に作動している間だけブザーが鳴り続け
ブザーが止まれば動作に何らかの問題が発生したということが分かるというものです

実際、この放送はマイクに何かの装置が発している音声をマイクが拾っていることが分かっています
(根拠は、会話音がブザーの後ろから聞こえてくることがまれにあるため
会話内容はノイズと一体化しているため不明。)

同様に(施設がモスクワに近いため)
「旧ソ連全土に対するモスクワの生存信号で、72時間以上途切れた場合は所定の目標に核攻撃を行う」という説も出てきました

2:電離層の反射状態から地震や地下核実験等を検出する

先にも書いたように、短波は電離層で反射する特性を持っており、
気温、日照、周波数によって反射が変化してくるので
それを観測することによって電離層の状態を把握することが出来るのです

また、地震が起こる際は電離層の状態が大きく変化することが知られています
(そのせいか米国の電離層観測・研究施設HAARPが電離層に影響を与え、
意図的、人工的に地震を発生させているという陰謀論が存在する)
HARRPのアンテナアレイ



更に、地下核実験を行った際も電磁パルスによって電離層が変化することが知られており
これらを検出するためとも言われていた
(この電磁パルスを逆手に取ったのが核兵器の運用法の一つ、EMPである)


しかし、ブザー以外が放送されたことによって他の説が出てきました

3:国外のスパイ向け乱数放送である

短波ラジオというのは長い間、国外のスパイに対する暗号通信の手段として用いられてきました。
これは、軍で用いられる暗号と同様、乱数表を手元に持っている人間にだけ放送の内容を理解できるもので、
一方的な情報送信でいいならば、情報送受信時に対象国の防諜に気づかれにくいため
一番安全な手段といえるでしょう。
電波を双方で送り合っていれば(長距離で電波を贈り合うならば大規模な設備が必要なため)
見つかりやすいですが、
ラジオを受信する人の中からスパイを見つけるのは非常に難しいのです

冷戦中の乱数放送は数多く行われ、乱数放送を受信していたとして逮捕された人も居ます。
これは西側での事で、乱数表を持っていたためスパイとして拘束されました

割と最近、かつ日本で有名な例としては「大韓航空機爆破事件」の犯人、
金賢姫が北朝鮮からの支持を短波放送で受け取っていたという話があります

現在でも北朝鮮、韓国、中国、台湾の乱数放送を日本で聞くことが出来ます。
最も、The Buzzerのように常に放送しているわけではないので録音していないとまともに聞けませんが。
(The Buzzerはアンテナと電離層次第で日本でも聞けます)


この説を補強するように、1997年には乱数放送によく似たメッセージが放送されました

≪Ya - UVB-76.
18008.
BROMAL: Boris, Roman, Olga, Mikhail, Anna, Larisa.
742, 799, 14.≫

これらの放送内容は乱数放送に酷似しています。

この後、2002年、2006年、2010年にメッセージを放送しました
2010年の放送。当然内容は意味不明。

2010年のメッセージの後、The Buzzerはしばらく放送を停止します。
この間に放送局が移動したらしく、

以前のように巨大なアンテナなどの施設が無くなったため、
大まかな位置は受信方向から予測されているものの、
どの建物で行われているかというのは移転後3年経った現在も分かっていません


また、この移転時期はロシア連邦軍の軍管区再編及び予算圧縮のための国防体制見直しによる
部隊の配置転換の時期と重なっており、用途が少しづつ見えてきていました

2011年にはUVB-76を放送していた古い施設が遺棄されていたため、
探索が行われました

探索をした彼らは軍事施設であると主張し、
無線放送記録も見つかったそうである。

しかし、やはり実際の詳細な用途に関する記録などは発見されなかったそうです
そりゃ引っ越しの時に機密に関するものを残していくとは思えませんしね

因みに、2010年に引っ越した後、
数十秒ながら音楽が流れたり、技術者の会話が流れたり、
謎の電話による会話が30分近く垂れ流されたりしてます。

引っ越しした時に色々ドジっちゃったみたいです。
なんか未知による恐怖感が削がれますよね。


その後、2012年、2013年にもメッセージは放送され

そして今年に入るとメッセージ放送の回数が異様に増え、
最近も月に1-2回の頻度でメッセージが送信されています。

最近ウクライナ周りで起きていることを考えると用途が透けて見えますね…


かつては秘密と未知と不気味さによって人々の興味を引きましたが、
それもすでに過去なのでした。

クリミアのロシア連邦に参加するための住民投票を行った日に変わった放送が行われたって辺りにも色々と見えてきますね

個人的にはロシア連邦軍の西部軍管区や南部軍管区の
工作員又は部隊に対する放送だと考えています。

ただ、それだとブザーを鳴らし続ける理由が分からないんですよねえ…
英語圏を探せばもっと情報があるでしょうけど流石に時間がかかりすぎるのでやめておきます


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2014年4月29日火曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエトと冷戦の終わり「茶番をしたら壁が壊れた」

ある意味見えない敵、予算との戦い


1980年代、
長く続いた冷戦は兵器開発競争に伴う軍事予算、国家財政との戦いでもありました。

兵器における電子機器の重要性が増していくと、
電子機器の開発能力が開発費と性能を左右するようになりました。

経済力が次第に増大する米国をはじめとする西側諸国は、
民生技術を背景に高い電子機器の開発能力を持ち、
民生技術の応用も数多く行われたため開発費も抑えられました。

それに対し、経済力の伸びが悪いソヴィエトを中心とする東側諸国は、
共産主義国家であるが故に民生技術も無く、
特に電子機器の開発能力に関しては貧弱と言わざるを得ず、
多額の開発費を投じても米国に一段劣る物しか開発できない有り様でした
(例 1970年代から1990年代にかけての戦闘機のレーダーやミサイルシーカー
その代わり機動性はソ連・ロシア製の方が高く、格闘戦においては有利)

その上、ソ連の想定以上に長引き泥沼化してしまったアフガニスタン侵攻の戦費が嵩み、
更に財政を圧迫していきました


ペレストロイカ、グラスノスチと汎ヨーロッパ・ピクニック


1985年、共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは
ソ連型社会主義を部分的に民主化、自由化する「ペレストロイカ」を実行。

それまで全て秘密とされた中央委員会(日本で言う国会に相当)の会議をテレビで中継する等
共産党内部の情報公開が進められた。

1986年にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退を表明。


更に、ソ連が東側諸国に対する政治圧力を放棄したことを表明し
それまでソ連を恐れソ連に従ってきた東側諸国はソ連の支配から脱し、
ポーランドでは1989年が民主化。複数政党による自由選挙が開かれ、
複数政党制に移行しポーランドの一党独裁制は終了した

また、ハンガリーも民主化を進め、
オーストリアとの国境封鎖を解除。
西側であるオーストリアとの間を行き来できるようになった。

一方、東ドイツは大戦から長きにわたって分断国家で、
社会主義、共産主義、監視社会に嫌気が差した数多くの人達が西ドイツへの脱出を試みてきた。
特に「ベルリンの壁」を越えようとした人々の話は有名である

当時、東ドイツにおいて旅行は許可制で、許可が出れば西側に行く事も出来たが、
実際の所許可が出るわけもなかった。

しかし、東側諸国に対する旅行は許可が出やすいため、
未だ「東側」と認識されているハンガリーに旅行に行くと許可をもらい、
そのまま不法出国してしまえば西ドイツに行けるのではないかと考えた。

実際はハンガリー人しか出国できなかったが。



その頃、東ドイツは分断国家であるがゆえ、国家の存在意義が「社会主義」以外無い訳で、
その社会主義さえ無くなってしまえば国家の存在自体が危うい状態だった

周辺国家がソ連のお墨付きの元、改革を進め次々と民主化していく中で
東ドイツはソ連の書籍すら輸入を禁止するような逆行状態であった

当然、東ドイツの首脳陣はこの国境開放に激怒したそうだが、
ソ連のお墨付きが出ているため目立った抗議は出来なかった。


しかし、ハンガリーで民主化を求める勢力や
政府の民主化改革派は多少強引な手段を使ってでも東ドイツ市民を越境させてしまおうと考えた。

表向き「集会兼お祭り」として企画された「ヨーロッパの将来を考える会」は
その実、西ドイツやオーストリアの外交官、ハンガリーの国境警備隊、入国管理局まで巻き込んだ盛大かつ大きな政治的メッセージを持った茶番であった。



「ヨーロッパの将来を考える会」は1989年8月19日に実行された。

その日、国境警備隊は「なぜか」検問所付近には居なかったし、
「なぜか」検問所の係員が何時もより少なかった。

オーストリア、ハンガリー国境の検問所が破壊され、東ドイツ市民を満載したバスが次々に到着し、
国境のゲートを東ドイツ市民が走り抜ける中、

検問所の係員は不法出国が行われているゲートに背を向け、
オーストリア人のパスポートを一人10分以上かけて入念にチェックしていた。

ゲートを走り抜けた東ドイツ市民は、「なぜか」そこに居合わせた西ドイツの外交官から西ドイツのパスポートを受け取り、
「なぜか」オーストリア側にあったバスに乗って西ドイツに向かった。

ゲートを走り抜ける東ドイツ市民
この事件は、「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれている。
どうも、彼らはピクニックをしていたら「なぜか」「間違えて」国境を超えたらしい。

全く持って盛大な茶番である

ソ連は当然この事件に関して見て見ぬふりをして、全く干渉しなかった

この様子は西ドイツ(西ベルリン)でテレビ放送されたため、一部の東ドイツ市民は当然見ることが出来た。
当然西ドイツの放送を受信することは禁止されていたが、
監視を逃れてほぼ全国民が見ていた。

東ドイツ政府は当然ハンガリーに激しく抗議し、
東ドイツ市民を強制送還するよう求めたが、ハンガリーは応じるわけもなく
正に後の祭りだった

この後もハンガリーからオーストリアへの東ドイツ市民の出国は止まらなかった。


10月になると東ドイツ政府はハンガリーへ行く際に必ず通らなくてはならないチェコスロバキアとの国境を封鎖。

数万人規模のデモが発生し、東ドイツ市民の不満は体制批判へと変わっていく。


周辺国が次々と民主化、またはその動きがある中、
社会主義を続けなければ国が消滅する東ドイツ政府の最後の頼みの綱は
ソ連の支持を得ることだったが、
ゴルバチョフが東ドイツを訪れた際、演説の内容や態度から東ドイツ政府を支持していないのは明らかであった。

この頃のソ連は社会主義を捨てるように諸外国に圧力をかけていたと言っても過言ではない状態になっていた



失言と勘違いで壁が無くなった


1989年11月
デモが拡大を続け、東ベルリンで100万人規模のデモが発生。

東ベルリンでのデモ(1989年11月4日)


なんとかこれを抑えるために新たな旅行法案を作るものの、
人民議会は旅行に国の許可を要するこの法案を否決。

デモの拡大、ストライキの広範囲発生。
党の中央委員会は罵声大会と化し、議会として成立していない有り様だった

9日、新たな旅行法案は党の権限によって政府政令として審議するため発表された。
但しこれが党の外部に発表されるのは翌日の10日の予定だった


その日、党の記者会見が行われたが、
会見を行ったのは中央委員会に参加せず旅行法案に関して知らない党員だった。
会見の前に資料として旅行法案の書類を渡されたが、中身をよく把握していなかったらしい。

国民の大量出国問題に関して、「我々はもう少々手を打った。
ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」

「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、全ての国境通過点から出国が認められる」と発言。
その後、発効日を尋ねられた際、「直ちに、遅滞なく」と発言。

実際にベルリンの壁を超えるには許可証が必要だったが、それに関して記者会見では何も言われなかった。

この会見をテレビで見ていた市民は半信半疑にベルリンの壁に集まった。

国境警備隊は10日に内容を知らされる予定であったため、
会見を見ていない警備隊と市民の間でいざこざが起きた。

ゲートに詰めかける市民


会見の3時間後には6つの検問所にそれぞれ数万人にもなる市民が詰めかけ、
武力鎮圧も出来ない状態になり最後には警備隊の独断でゲートを開放。
国境警備隊に撤収命令が下された。

日付が変わると市民がハンマーを持ち出してきて壁を叩き始めた。
更に数日後には東ドイツ政府によって壁の撤去が始まる。



冷戦の象徴は失言と勘違いと茶番と、わずか数時間で崩壊したのであった。






またウクライナとは関係ない内容なのですが、
ソビエト崩壊を語る時には必要な話なので…
次回はソ連崩壊前後のウクライナの話に・・・なるのかなあ?
東欧革命周りはまだ説明が必要かも。

あと、Kumacoin始めました。
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2014年4月27日日曜日

ロシアとウクライナ:戦前戦後ソビエト時代

大粛清はウクライナとあまり関係がないので
大戦から崩壊前までのソ連を簡単に確認していきましょう。




1930年代後半に行われたスターリンによる大粛清は数百万人規模の犠牲者を出し、
赤軍の将校や共産党員すら巻き込んだ結果、
国力と軍事力の低下を招いた。

そして、軍事力と国力が低下したままドイツはソ連に対して侵攻を開始、
独ソ戦が始まる。

ソ連の工業生産力の殆どはモスクワより西側、
つまりドイツ、ポーランド側に偏っており、
特に旧首都サンクトペテルイブルグ改めレニングラード近辺に集中しており、
ドイツもソ連の工業力を削ぐべくレニングラードを包囲するよう進軍した

1941年、レニングラードは包囲された結果、補給が途絶。
都市の食料事情は一気に悪化していき、
冬になると燃料不足も手伝って飢餓による大量死が発生し始める。

当然、市民は死体を食らうに至ったが、その有り様は10年前のウクライナより更に悲惨なものだった

「人肉を売る店」すら有り、子供の人肉は美味いとされ、市内で子供の誘拐と殺人が横行。
結果レニングラードは100万人近い市民が死亡したとされる

冬に近隣の湖が凍結して通行可能になったのを利用して市民を市外へ運び、

生産力の保護を図るため、
レニングラードからモスクワより更に東、ウラル山脈より東に工場を疎開させた。



初期は押され気味だったものの縦深防御の成功によるドイツ軍補給線の疲弊と、
「必要ならば人命を消費する」というソ連らしい戦い方の結果、
ドイツは押し戻され始める。

第一次五カ年計画時の急速な工業化無しには押し戻すことも困難だったと言われており、
『ホロドモール』が無駄死、虐殺であるという主張に対する反論でたまに使われる。




因みに、スターリンは独ソ戦時に「一歩も下がるな!(Not one step Back!)」という命令を出している

これは、督戦隊を各部隊に配置し、交代してくる味方の「臆病者」を射殺する命令で、
徴兵したての士気が低い兵士を後退させないための命令だった。

よく言われる「銃は二人に一丁」というのは事実だったか怪しいのだが、
「無断で後退した臆病者には督戦隊が『懲罰』を与える」というのは事実であった

足りないものは人命で補うというのはこの辺りにも現れている。



ソビエトはアメリカからの数多くの物資の供給と
(色んな物を犠牲にして得た)強力な工業生産力に支えられてドイツに対して物量戦を展開。
ベルリンを占領し、ソ連が侵攻する前に日本も降伏したため、二次大戦は終了した。

独ソ戦の死者は2500万人、ウクライナでは1000万人近くが死亡したとされ、
これは当時のウクライナ人口の2割に当たる



大戦が終わると、核戦力を背景にした資本主義と共産主義の戦い、冷戦が始まる。
ドイツはソ連占領地域とアメリカ、フランス、イギリス占領地域で分割され、
東西ドイツとして冷戦が終わるまで分断国家で在り続けた

弾道ミサイル技術の展示会として使われた宇宙開発競争、
核戦力の配備競争、核開発競争、
兵器の開発競争など、自陣営が有利に立つために競争を繰り広げた。

西側諸国は二次大戦で見せつけられたソ連の『必要ならば人命を消費する』という物量戦を特に警戒し、
それらの侵攻を防ぐために戦場で使える核兵器、戦術核兵器の開発を急いだ
(その結果いくつかの珍兵器が生まれてしまったが)


ソ連はアメリカを始めとする西側諸国に対して、
軍事技術に関しては同水準のものを開発し続けた

しかし、ソ連の国力は大戦前から軍事生産や軍事研究に偏っており、
軍事技術は西側諸国に劣らないものであっても、
民生技術においては西側には遠く及ばず、長年国民の生活は改善しなかった。

大戦から時間が経つに連れて西側との経済力の差は大きく開いていった。

また、ソ連の食料生産は集団農業の影響で相も変わらず生産量が上がっておらず、
自給率が100%を下回っていたため、

冷戦で最大の対立国であったアメリカから食料を輸入せざるを得ず、
西側に輸出できるものが天然資源以外無いソ連は対外債務が日に日に増えていった。
にも関わらず、東側諸国に対する経済支援は外交上継続せざるを得ず、

冷戦におけるソ連の敗北は次第に確実なものとなる


1979年、アフガニスタンの共産主義政権に対する武力抵抗運動が勃発、
アフガニスタン政府軍だけでは抑えられなくなてしまったため、
政権はソ連に軍事貫入を要請。

ソ連はアフガニスタンに侵攻を開始した。
今現在まで40年近く続くアフガン紛争の始まりである。

抵抗運動は「ムジャヒディーン」と呼ばれた。
このムジャヒディーンの中には後に国際テロ組織「アルカーイダ」の指導者となる
ウサーマ・ビン=ラーディンも含まれていた。

平原と丘陵地帯(というかヨーロッパ)における正規軍相手の電撃戦と総力戦を想定していたソ連軍は
アフガニスタンの山岳戦に苦戦。

更に、アメリカやパキスタンの支援によって
ムジャーヒディーンは軍事訓練を受け、数多くの兵器や武器を受け取り、
山岳戦に悩むソ連に対して優位に戦った。

戦闘ヘリによる掃討作戦が実施された際に対空ミサイル「スティンガー」を
アメリカがムジャヒディーンに供給したのは有名な話である

1988年まで続くアフガニスタン侵攻による多額の戦費は、ただでさえ軍事費に偏っていたソ連の財政を更に苦しい物にして、ソ連を解体する原因ともなった



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2014年4月23日水曜日

ロシアとウクライナ:ソヴィエト・ロシアによる間接的虐殺「ホロドモール」

「ホロドモール」
割と知られてないかも知れませんが
ウクライナとロシアの関係を語る上で絶対に切り離せないものです

ここまでの記事を読んでいなくても分かるように書いています





1922年、ウクライナはソヴィエト連邦の構成国となった。

帝政ロシア時代の農奴制等の弊害もあって、
工業化遅れるソヴィエト・ロシアにとって
痩せたロシアの土地と比較して土壌の豊かなウクライナの穀倉地帯から収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。

結局、外貨のためにやってることは帝政ロシア時代と変わらなかった。


しかし、ロシア革命後に発生した資本家、地主等のロシア内戦とそれに伴って実行された
「戦時共産主義政策」は農民からの食料の強制徴収を行い、
戦争遂行のため軍への優先した食料と物資の再分配によって
都市では食料が不足。「買い出し」と「闇市」が必要になるという何処かで聞いたような状態となった

更に、当時の労働者層は農村から出てきた者も多いこともあって
農村に帰る事パターンが多く都市からの労働者が流出。
工業生産は革命前の20%まで落ち込んでいた。

これでは農作物以外の輸出など出来るわけもない。



戦時経済によって疲弊しきったソヴィエト経済を改善するため、
今度は「ネップ」と呼ばれる部分的な資本主義の政策が取られたが、

資本主義に基づく新たな資本家と自分の土地を所有する富農「クラーク」などが生まれ
社会主義の前提を崩れさせる「貧富の差」が発生した。




レーニンの死後、ヨシフ・スターリンがソヴィエト連邦の最高指導者となると、
社会主義体制に基づいた計画経済案「第一次五カ年計画」が策定された。

五カ年計画には「農業の集団化」という内容が含まれており、
これはネップによって復活した農産物の投機的売買を撲滅し、
土地、農機具、家畜等を集団で共有することで農民が勝手に市場に農作物を売却することを防止し
政府が独占的に農作物を買い上げることによって
国内で生産される食料を政府が監視できる状態にすることを目的にしたもので、

都市に対する食料供給と価格を安定させ、食料の流通における非効率的な要素を排除できるとされた。

…とされるが、実際のところは
極端な工業化政策によって都市に集まった労働者に安価な食料を提供するために
政府が穀物の市場価格を安く抑えたため
農民が出し惜しみをした結果、政府は都市に対して食料を供給することが出来なかったため、
半強制的に穀物を徴収するために農業の集団化を進めたのだった。



当然、これらの政策はウクライナでも実施された。
土地が豊かな分、ウクライナでは自分の土地を保有する農民も多かったため
集団化はあまり進まなかったが、
より多くの食料を管理したいソヴィエト政府は強制的に農業の集団化を進めた

当然、反発する者は多かったが
農業の集団化に反対する者に対してソヴィエト政府は彼らをネップ期に富を手にした「富農」であるとした。
この反対者達に関してスターリンは後年こう語っている
「(抵抗した農民の数は)ざっと1000万人くらいでした。抵抗する農民どもには極北の土地をくれてやりました」

実際の反対者達の数は定かでないが、彼らが文字通りシベリアに送りにされたのは事実である
因みに、そのうち処刑されたのは資料に残っているだけで2万人ほどになる。


しかし、「富農」だと言われた農民は勤勉な農民であることが多く、
非常に効率的で効果的な農業と長時間の過酷な労働の末に多くの農作物を生産したために
それ以外の農民より裕福な生活を送っていた訳だが、

集団化制作によって富農が弾圧されたため農業に熱心に取り組む人間がいなくなり、
政府が生産する作物を指定し、独占的に不当な低価格で買い上げるため
農民の労働意欲は低下しソ連全体の農作物生産量そのものが下がるという皮肉な結果になった。


以上の理由からウクライナで食料生産量が低下したが、これに関してスターリンは
ウクライナの農民が食料を隠しており、集団農場で食料を隠すことを『窃盗罪』とし、
その刑罰を厳しくすることでこれを改善できる
と、考えたのである


そのため、集団農場に所属する農民は政府や農場に秘密でパンの取引や落ち穂拾い、穂を狩ると
『人民の財産を収奪した』とされ、10年間の懲役刑…もとい強制収容所送りとなった
1933年春には家畜用の飼料ですら『悪用』すると強制収容所に送られると言われた。

また、農作物の徴収を強制的に行い、
生産量の何割、というものから最初に決められた一定量を徴収する形に変化したが、
都市の労働者に食料を供給するため、不作でない年でも生きて行くのに最低限の量だけが農民の手元に残るような量を徴収された。

1932年末、ウクライナで国内パスポート制が導入され、農民の移動の自由は制限された。
農民は村や集団農場に縛り付けられ、さながら農奴のように移動が出来なくなった。

また、農作物を確実に回収するため監視のため都市の労働者や共産党メンバーから構成される「オルグ団」が作られ、
農村や集団農場を巡回し監視した。

学校教育等を利用して子供にも監視させ、肉親を告発した者には
食料や衣服やメダルを与えた。





(この親を告発したという少女は親戚に殺されたという出所不明の話を見たことがある)



共産党メンバーは家々を周り、食卓からパンを、鍋から粥まで奪っていったと言われている


(画像を多めに用意しようと思ったのですが、キツい画像が多いので省略します)
(探せばかなりの枚数があります)
穀物類の強制徴収
1932年は欧州の広範囲で凶作であったが、他の国では特に問題にならない程度のものだった。
他国では目立った死者なんて出ていない。

しかし、ソヴィエトは違った。
食料を没収された農民はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫やドングリまで食べた。
それでも食料が足りない農民たちは病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べた結果
多くの人間が病死し、その死体を食って体調を崩し病死するという有り様だった。
果てには(生きている)赤ん坊を食べたことさえあったという。

通りには死体が当たり前のように転がり、所々に山積みされ腐敗臭が漂っていた。
死体処理のための労働者が都市から送られてきたものの、一向に死体は減らなかった


因みにこの頃のスターリンは
料理が気に入らないという理由で皿ごと床にぶちまけたり、
味が気に入らないからと食わずに捨てさせて作り直しを要求したり
数多くの作家を招待して高級食材を振る舞う運河の船旅を行ったりなどしていた。
わかりやすい独裁者である。



ソ連政府は死体の山が発生しても飢餓の事実を認めなかった。
輸出用の穀物を放出すれば農民の死は防げるはずで、他国なら普通そうする。

しかし、国外に対して世界恐慌の影響を受けない5カ年計画は成功していると宣伝していたため、
ソ連としては五カ年計画が原因になった飢餓の存在を認めるわけには行かなかったのだ


結果として、500万人以上の農民が餓死し、
ウクライナの農業人口の二割が死亡した。

彼らがなんの為に死んだかと言えば、ソ連の工業化のためである
都市の労働者を養えなければ工業化は進まないが、
農民にも労働者にも十分な食料が与えられるような工業化では西欧諸国には追いつけない。
そう考えられた結果、「人命を消費して」急速な工業化を行ったのである。


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2014年4月21日月曜日

ロシアとウクライナ:ボルシェヴィキのソヴィエト/ウクライナの復活と敗北

1917年2月。
帝政ロシアは倒された。
ウクライナは独立を勝ち取るチャンスを得た。

ウクライナは自治組織を結成。ロシア臨時政府に対して代表団を送り「ロシア連邦」内部の共和国として自治権の保証を求めた。
交渉の結果、臨時政府はウクライナの自治を認めた。
つまり、ロシアから完全に独立するのではなく、現在ロシア連邦を構成している共和国のように、
高度な自治権がある地域としての立場を求めた。

では、ウクライナ以外の地域はどうだったのか。

例えば、フィンランドは革命までロシア帝国の属国だったが、
それまでのロシア語の強制や文化的圧力、所謂ロシア化等に対する不満もあって
「完全独立」路線になる

ポーランドも同様の理由で完全独立路線へ。

そして10月
ロシアではボルシェヴィキが武装蜂起によって政権と権力を獲得したが
ウクライナはボルシェヴィキ率いるソヴィエト政府をロシア帝国の後継国家とは認めず、
「ウクライナはロシア共和国とともにロシア連邦を構成する自治共和国である」という宣言を出す。
(臨時政府≒ロシア共和国)



この宣言によって「ウクライナ人民共和国」が誕生する
尚、交渉相手となる臨時政府が既に存在しないため実質的な独立宣言であった。

ウクライナ人民共和国の国旗
現在のウクライナ国旗とは色の配置が逆である


イギリスとフランスはこの宣言を受けてウクライナの独立を認め、国家として承認し
代表団を首都キエフに送った。

その他の一次大戦協商国側の国家も次々に独立を承認した。
これは、ウクライナが単独で対ドイツとの講和を行って戦争から離脱するのを回避する狙いがあったと思われる

当然、ソヴィエト政府はウクライナの独立を認めるはずがなく、
ウクライナ人民共和国での赤軍の活動を無制限に認める事を引き換えに国家として承認するという「最後通牒」を出した
(赤軍:ソヴィエト及びボリシェヴィキを支持するロシア軍の事 後のソヴィエト国軍)

他国の軍事力を国内に制限なく置くということは、実質属国となるという事であり
「国家として認める」といった所でその後軍やら何やらを利用してソヴィエト従わせるのは目に見えていた。
ウクライナはこの要求を拒否したため、
ソヴィエト政府はウクライナへの軍事侵攻を行うことを決定。

年を跨いで1918年1月

ソヴィエト赤軍はウクライナ国内への侵攻を開始。
物量、練度、作戦、戦術あらゆる面において劣るウクライナ側は敗北と撤退を続け、
僅か9日で赤軍は国境近くから首都キエフの面するドニエプル川の反対側まで近づいていた

1月27日には首都キエフが赤軍に占領され、ウクライナ政府はキエフから脱出。

同日、ウクライナ人民共和国とドイツ・オストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国
一次大戦における「同盟国」側との単独講和条約が締結され、

ウクライナはドイツと食料補給などに協力する代償として赤軍との戦いに関する協力を取り付けた。
ドイツ軍の協力の下、再編成されたウクライナ・ドイツ軍は3月にキエフを奪還したが、
食料補給に関してトラブルが発生した。

ウクライナ政府による抗議の末、ドイツ軍はウクライナ政府を排除することに決定。

4月末にはウクライナ政府によって追放されていた帝政ロシア時代の地主や貴族がドイツ軍の支援を受けてクーデターを発生させた。

この後のウクライナ政府はドイツ軍の影響を強く受けたものに変わるが、

今度は白衛軍(ボルシェヴィキ以外の政党を支持するロシア軍やコサック軍の集まり)
やウクライナ民族主義派、ウクライナ武装革命主義派、
ボリシェヴィキ・ソヴィエト赤軍等
多数の武装集団が互いに争い潰し合う内戦に入った。

1918年末には「ウクライナ人民共和国」のクーデター政府はキエフを追い出されることとなったが、
亡命ウクライナ政府は長年「ウクライナ民族永遠の敵」とされたポーランドと手を組んで
ウクライナを取り返そうとした。

一方でこの頃にはウクライナにはボルシェヴィキ・ソヴィエトを支持する組織も居た。
「ウクライナ・ソヴィエト共和国」と名乗るこの国家は、現在親ロシア派が活動を行っているドネツク州も含まれるもので、その地域に多数住むロシア人の国家としての性格を持ち合わせていた。

この結果、ポーランド・ソヴィエト戦争は
「ウクライナ・ポーランド連合」と「ロシア、ウクライナ・ソヴィエト連合」の戦いとなった

1919年から1920年に掛けて戦争は行われ、ポーランドはワルシャワを包囲されるものの機動作戦によってソヴィエト連合軍を追い返し、
最終的には「ポーランドとソヴィエトがウクライナを分割」という結果に終わり、
ポーランドに裏切られた亡命ウクライナ政府は更にフランスに逃げるも、ウクライナに戻ることは二度となかった。

結果として、ウクライナは「キエフ・ルーシ」時代以来の完全独立に失敗し、
ウクライナはソヴィエト・ロシアの影響下に置かれる
「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」となった。

因みに、ポーランドは先に書いた内容から分かる通り独立を果たし、
フィンランドは赤軍を全て追い出して独立を手にしたのであった。


かくして長い戦乱期を終えてウクライナは(他民族の支配力が強い状態ではあるが)
他の一次大戦参戦国よりも人足遅い平和を手にした。


しかし、僅か10年後、

長年の戦争などまだマシだったと思えるほど
過酷な生活を、ウクライナの人民は味わうことになる






次回、「ホロドモール」



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2014年4月19日土曜日

ロシアとウクライナ:ここまでの流れ簡易まとめ。10分で読めるはず

流石に普通の人が読めない状態になってしまっているので、
色んな人に読んで欲しい「ホロドモール」辺りまでの流れを簡単にまとめていきます




10世紀頃、ウクライナ人の民族的先祖に当たるキエフ・ルーシ人は
「ルーシ」という国家を持っていた(ロシア人も同祖なので注意)
↓
「ルーシ」はキエフ大公国と周辺の小国に分裂するが、
これは諸侯の領地を「国」と呼んだだけで、完全に別の国家となったわけではなかった
因みにこの頃のクリミア半島はキエフ大公国とビザンチン帝国で分割されていた
↓
モンゴル帝国が侵入。「ルーシ」を完全に飲み込んだ。
帝国は分割され、今のウクライナの位置には「ジョチ・ウルス」が残った。
クリミアのキエフ大公国の領地はジョチ・ウルスになる
↓
モスクワ大公国がジョチ・ウルスの力を利用して力を強める
ジョチ・ウルス滅亡 領地はいくつかの国に分割され、
最終的にポーランドとモスクワ大公国に分割される
クリミアには「クリミア・ハン国」が誕生 
かつてクリミアでビザンチンが持っていた地域はオスマン帝国になる
↓
コサックが誕生
西のコサックはポーランドに、東のコサックはモスクワ大公国に有力な軍事力として活用され、
その地位と自治権を認められた。
↓
西のコサックはポーランドに対して反乱を起こし、「ヘーチマン国家」として独立するも
数十年で結局ポーランドとモスクワ大公国に踏み潰され分割される
↓
モスクワ大公国はロシア帝国になる
↓
ロシアの農奴制が年を追う毎に悪化。
極端な貴族優遇と農民冷遇が続く。
「土地に拘束された農民」という立場は何処へやら、
土地と関係なく資産として売却が可能になるようになる
↓
19世紀も中頃、農奴制は廃止されたが、
土地の再分配等が原因で農民の生活は寧ろ苦しくなる
↓
20世紀に入る。
ロシアも次第に工業化し、都市労働者が増えるも生活は農民同様厳しい。
日露戦争勃発。ロシアは敗北を続け、日本海海戦で敗北は決定的なものになる
平和と生活改善と代議制を求めて首都サンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
軍がデモ隊に対し発砲。デモとストライキはさらに拡大

皇帝が国会を開くことを宣言すると事態は収束するが、
国会の権限は異様に低いものであったし、皇帝の権限で解散できるものであった
↓
12年後 一次大戦による戦時経済で国民の生活は困窮、その不満が原因で
再びサンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
今度は軍の兵士も反乱に参加。最早皇帝が止められる状況ではなくなり
皇帝は退位。
国会の議長が臨時委員会を組織、臨時政府を立てる(ロシア革命)
↓
臨時政府の他に「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が組織され、
労働者と兵士は「ソヴィエト」を支持した。
↓
「ソヴィエト」を構成する政党の一つ、「ボルシェヴィキ」が武装蜂起を実施
権力、政権を確保する
↓
ボルシェヴィキ、一次大戦の全交戦国に「平和に関する布告」を布告
無賠償、無併合での講和を提案するも、ドイツは無視。
ドイツに負け続きのロシアは不利な条件での講和条約に調印せざるを得なかったが、
国民の要求であった「平和」を達成し、一次大戦から離脱した
↓
日本、アメリカ、イタリア、イギリス、フランス等の一次大戦「協商国」側が
ロシア革命政権を倒す事も想定した干渉戦争を開始
(シベリア出兵)
↓
帝政ロシアから独立し、誕生した
ポーランド、フィンランド、ウクライナ等の国家はボルシェヴィキに敵対。
「反革命軍」たる旧帝国派や共和主義者等が「白軍」としてボルシェヴィキと敵対
そのままロシア内戦となる
↓
1920年頃 内戦はほぼボルシェヴィキの勝利。
ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦となる



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