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左にあるラベル毎に続き物の話をまとめています

2014年4月21日月曜日

ロシアとウクライナ:ボルシェヴィキのソヴィエト/ウクライナの復活と敗北

1917年2月。
帝政ロシアは倒された。
ウクライナは独立を勝ち取るチャンスを得た。

ウクライナは自治組織を結成。ロシア臨時政府に対して代表団を送り「ロシア連邦」内部の共和国として自治権の保証を求めた。
交渉の結果、臨時政府はウクライナの自治を認めた。
つまり、ロシアから完全に独立するのではなく、現在ロシア連邦を構成している共和国のように、
高度な自治権がある地域としての立場を求めた。

では、ウクライナ以外の地域はどうだったのか。

例えば、フィンランドは革命までロシア帝国の属国だったが、
それまでのロシア語の強制や文化的圧力、所謂ロシア化等に対する不満もあって
「完全独立」路線になる

ポーランドも同様の理由で完全独立路線へ。

そして10月
ロシアではボルシェヴィキが武装蜂起によって政権と権力を獲得したが
ウクライナはボルシェヴィキ率いるソヴィエト政府をロシア帝国の後継国家とは認めず、
「ウクライナはロシア共和国とともにロシア連邦を構成する自治共和国である」という宣言を出す。
(臨時政府≒ロシア共和国)



この宣言によって「ウクライナ人民共和国」が誕生する
尚、交渉相手となる臨時政府が既に存在しないため実質的な独立宣言であった。

ウクライナ人民共和国の国旗
現在のウクライナ国旗とは色の配置が逆である


イギリスとフランスはこの宣言を受けてウクライナの独立を認め、国家として承認し
代表団を首都キエフに送った。

その他の一次大戦協商国側の国家も次々に独立を承認した。
これは、ウクライナが単独で対ドイツとの講和を行って戦争から離脱するのを回避する狙いがあったと思われる

当然、ソヴィエト政府はウクライナの独立を認めるはずがなく、
ウクライナ人民共和国での赤軍の活動を無制限に認める事を引き換えに国家として承認するという「最後通牒」を出した
(赤軍:ソヴィエト及びボリシェヴィキを支持するロシア軍の事 後のソヴィエト国軍)

他国の軍事力を国内に制限なく置くということは、実質属国となるという事であり
「国家として認める」といった所でその後軍やら何やらを利用してソヴィエト従わせるのは目に見えていた。
ウクライナはこの要求を拒否したため、
ソヴィエト政府はウクライナへの軍事侵攻を行うことを決定。

年を跨いで1918年1月

ソヴィエト赤軍はウクライナ国内への侵攻を開始。
物量、練度、作戦、戦術あらゆる面において劣るウクライナ側は敗北と撤退を続け、
僅か9日で赤軍は国境近くから首都キエフの面するドニエプル川の反対側まで近づいていた

1月27日には首都キエフが赤軍に占領され、ウクライナ政府はキエフから脱出。

同日、ウクライナ人民共和国とドイツ・オストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国
一次大戦における「同盟国」側との単独講和条約が締結され、

ウクライナはドイツと食料補給などに協力する代償として赤軍との戦いに関する協力を取り付けた。
ドイツ軍の協力の下、再編成されたウクライナ・ドイツ軍は3月にキエフを奪還したが、
食料補給に関してトラブルが発生した。

ウクライナ政府による抗議の末、ドイツ軍はウクライナ政府を排除することに決定。

4月末にはウクライナ政府によって追放されていた帝政ロシア時代の地主や貴族がドイツ軍の支援を受けてクーデターを発生させた。

この後のウクライナ政府はドイツ軍の影響を強く受けたものに変わるが、

今度は白衛軍(ボルシェヴィキ以外の政党を支持するロシア軍やコサック軍の集まり)
やウクライナ民族主義派、ウクライナ武装革命主義派、
ボリシェヴィキ・ソヴィエト赤軍等
多数の武装集団が互いに争い潰し合う内戦に入った。

1918年末には「ウクライナ人民共和国」のクーデター政府はキエフを追い出されることとなったが、
亡命ウクライナ政府は長年「ウクライナ民族永遠の敵」とされたポーランドと手を組んで
ウクライナを取り返そうとした。

一方でこの頃にはウクライナにはボルシェヴィキ・ソヴィエトを支持する組織も居た。
ウクライナ・ソヴィエト共和国」と名乗るこの国家は、現在親ロシア派が活動を行っているドネツク州も含まれるもので、その地域に多数住むロシア人の国家としての性格を持ち合わせていた。

この結果、ポーランド・ソヴィエト戦争は
「ウクライナ・ポーランド連合」と「ロシア、ウクライナ・ソヴィエト連合」の戦いとなった

1919年から1920年に掛けて戦争は行われ、ポーランドはワルシャワを包囲されるものの機動作戦によってソヴィエト連合軍を追い返し、
最終的には「ポーランドとソヴィエトがウクライナを分割」という結果に終わり、
ポーランドに裏切られた亡命ウクライナ政府は更にフランスに逃げるも、ウクライナに戻ることは二度となかった。

結果として、ウクライナは「キエフ・ルーシ」時代以来の完全独立に失敗し、
ウクライナはソヴィエト・ロシアの影響下に置かれる
「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」となった。

因みに、ポーランドは先に書いた内容から分かる通り独立を果たし、
フィンランドは赤軍を全て追い出して独立を手にしたのであった。


かくして長い戦乱期を終えてウクライナは(他民族の支配力が強い状態ではあるが)
他の一次大戦参戦国よりも人足遅い平和を手にした。


しかし、僅か10年後、

長年の戦争などまだマシだったと思えるほど
過酷な生活を、ウクライナの人民は味わうことになる






次回、「ホロドモール」



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2014年4月19日土曜日

ロシアとウクライナ:ここまでの流れ簡易まとめ。10分で読めるはず

流石に普通の人が読めない状態になってしまっているので、
色んな人に読んで欲しい「ホロドモール」辺りまでの流れを簡単にまとめていきます




10世紀頃、ウクライナ人の民族的先祖に当たるキエフ・ルーシ人は
「ルーシ」という国家を持っていた(ロシア人も同祖なので注意)

「ルーシ」はキエフ大公国と周辺の小国に分裂するが、
これは諸侯の領地を「国」と呼んだだけで、完全に別の国家となったわけではなかった
因みにこの頃のクリミア半島はキエフ大公国とビザンチン帝国で分割されていた

モンゴル帝国が侵入。「ルーシ」を完全に飲み込んだ。
帝国は分割され、今のウクライナの位置には「ジョチ・ウルス」が残った。
クリミアのキエフ大公国の領地はジョチ・ウルスになる

モスクワ大公国がジョチ・ウルスの力を利用して力を強める
ジョチ・ウルス滅亡 領地はいくつかの国に分割され、
最終的にポーランドとモスクワ大公国に分割される
クリミアには「クリミア・ハン国」が誕生 
かつてクリミアでビザンチンが持っていた地域はオスマン帝国になる

コサックが誕生
西のコサックはポーランドに、東のコサックはモスクワ大公国に有力な軍事力として活用され、
その地位と自治権を認められた。
西のコサックはポーランドに対して反乱を起こし、「ヘーチマン国家」として独立するも
数十年で結局ポーランドとモスクワ大公国に踏み潰され分割される
モスクワ大公国はロシア帝国になる
ロシアの農奴制が年を追う毎に悪化。
極端な貴族優遇と農民冷遇が続く。
「土地に拘束された農民」という立場は何処へやら、
土地と関係なく資産として売却が可能になるようになる
19世紀も中頃、農奴制は廃止されたが、
土地の再分配等が原因で農民の生活は寧ろ苦しくなる
20世紀に入る。
ロシアも次第に工業化し、都市労働者が増えるも生活は農民同様厳しい。
日露戦争勃発。ロシアは敗北を続け、日本海海戦で敗北は決定的なものになる
平和と生活改善と代議制を求めて首都サンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
軍がデモ隊に対し発砲。デモとストライキはさらに拡大

皇帝が国会を開くことを宣言すると事態は収束するが、
国会の権限は異様に低いものであったし、皇帝の権限で解散できるものであった
12年後 一次大戦による戦時経済で国民の生活は困窮、その不満が原因で
再びサンクトペテルブルグでデモとストライキが発生。
今度は軍の兵士も反乱に参加。最早皇帝が止められる状況ではなくなり
皇帝は退位。
国会の議長が臨時委員会を組織、臨時政府を立てる(ロシア革命)
臨時政府の他に「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が組織され、
労働者と兵士は「ソヴィエト」を支持した。
「ソヴィエト」を構成する政党の一つ、「ボルシェヴィキ」が武装蜂起を実施
権力、政権を確保する
ボルシェヴィキ、一次大戦の全交戦国に「平和に関する布告」を布告
無賠償、無併合での講和を提案するも、ドイツは無視。
ドイツに負け続きのロシアは不利な条件での講和条約に調印せざるを得なかったが、
国民の要求であった「平和」を達成し、一次大戦から離脱した
日本、アメリカ、イタリア、イギリス、フランス等の一次大戦「協商国」側が
ロシア革命政権を倒す事も想定した干渉戦争を開始
(シベリア出兵)
帝政ロシアから独立し、誕生した
ポーランド、フィンランド、ウクライナ等の国家はボルシェヴィキに敵対。
「反革命軍」たる旧帝国派や共和主義者等が「白軍」としてボルシェヴィキと敵対
そのままロシア内戦となる
1920年頃 内戦はほぼボルシェヴィキの勝利。
ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦となる



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ロシアとウクライナ:ソヴィエトの生まれ 革命とボリシェヴィキ

ロシア革命は非常に長い割に今のウクライナとあまり関係がないので
飛ばし気味に行こうと思います

一応先に書いておくと、分かりにくいかもしれませんが
「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」は政党です。




ロシアでは農奴制が(名目上)廃止されたものの、
土地の購入代金のための負債の返済と、農奴が耕していた全ての土地が売却対象になったわけではなく、
地主の所有する土地が未だに多いこともあって
全ての農民が土地持ちの農民となることは出来ず、寧ろ全農民小作状態であった
(小作:他人の土地を借りて農業を行い、作物の一部を土地代として徴収される)

現代の日本的な言葉で訳すならば
「元農奴の農民は全員社畜(しかも超絶ブラック企業)状態」とでも言いましょうか


しかも、農奴制が廃止されただけで「貴族」と「それ以外」という明確な階級は未だ存在していて、
貴族にとってはそれまでの土地が金に変わっただけでも、
農民にとっては土地の購入代のために農奴時代より更に生活が苦しくなり、
政治への不満はむしろ高まっていった

また、農奴解放後のロシアは工業化の進展によって労働者が年に集まった時期でもあった
この労働者の変化も、革命の原因の一つとされる

更に、農奴解放問題から続く社会への不満は、
「ナロードニキ」と呼ばれる社会主義革命を唱える活動家を産んだが、

革命を恐れた皇帝はオフラーンカ(政治秘密警察)を用いて弾圧させた。






日露戦争とロシア第一革命(1905)
南下政策を続けるロシアは満州と、朝鮮に興味を持った。
当時朝鮮は積極的な親露政策を取っており、
幾つもの利権をロシアに売り渡していた。
(但し、朝鮮国内にもかなりの規模で日本に協力していた団体もあった)


一方の日本としては、ロシアの脅威を最大限遠ざけるという安全保障上の理由から、
朝鮮を勢力下に置き、可能であれば満州も確保したいと考えていた。

当時、日本とロシアの国力差は明らかに差が開いており、
(国土の広さという差もあるが)
歩兵66万対13万、砲兵16万対1万5千という圧倒的な差があり、
当時のロシア海軍は世界三位。

方や黄色人種で、国際社会に復帰してから僅か50年程の辺境国家。
日本国外の誰もがロシアが勝つと思っていた…

近いうちに開通するシベリア鉄道が全通すると
満州、朝鮮におけるロシア軍の作戦能力と投入可能戦力が大幅に伸びる
(補給能力と輸送能力が上がると数も戦闘能力も向上するため)

更に不利な状況が続くと考えた日本側は開戦を決断。
日露戦争が始まる。

朝鮮に上陸した日本軍は最初の三ヶ月、負け無しで快進撃を続けるも旅順で頭を悩ませる事になるがそれはまた別の話。

一方のロシア軍は負け続きに焦ったのと、ウラジオストクと旅順の海軍だけでは、
全戦力を投入できる日本海軍を排除することは出来ないと判断。

バルト海艦隊から戦力を抽出して派遣艦隊を編成、日本海に差し向けるのですが、
途中で英国の漁船を砲撃、撃沈してしまい英国は大激怒。
日英同盟のこともあって英国はスエズ運河の通行を拒否し、
諸外国に対してロシアに協力しないよう圧力をかけました

7ヶ月かけてようやく日本海に入った派遣艦隊。
日本の連合艦隊は戦艦4を中心に16隻に対し、
ロシアの派遣艦隊は戦艦8を中心とする全29隻。(艦隊決戦を行った戦力のみ)

この数の差では少なくとも決定的勝利は望めない。そう考えるのが普通…なのですが
蓋を開けてみれば日本側には損失無し。
方やロシア海軍は「全ての砲撃戦闘艦艇が戦闘不能又は逃亡、降伏」という酷い有り様。
これによって世界の海軍トップ3国家が「日本」「アメリカ」「イギリス」の3つに確定。

ロシア海軍は世界三位から世界6位まで降ろされたのでした

当然、これにロシア国内で反応がないわけがなく……

日本との戦争が劣勢になるにつれ戦費を浪費し、目的も不明瞭な戦争に反対する声が大きくなっていった


1905年1月、首都サンクトペテルブルクで10万人以上の労働者によるストライキとデモ行進が行われた。
基本的人権の確立や憲法の制定、日露戦争の終結等を要求するデモは皇帝に対する直訴でもあった

政府は軍を動員してデモ隊を止めるつもりだったが、デモ参加者6万人という人数によって成功せず、
軍は各地で非武装のデモ隊に対して発砲。
これにより数千人規模で死者が発生した。
これが「血の日曜日事件」である

軍の発砲によってストライキとデモは更に拡大。その規模は首都のみに留まらず、
国外のポーランドやフィンランド、ウラルより東、所謂シベリアでも行われた

皇帝は広範囲かつ大規模なストライキに発展してことを受けて
ドゥーマ(国会)の創設に応じたが、
ドゥーマの権限が小さく、実質皇帝がコントロールできるということが明らかになると
騒乱は更に激化

結局、政党結成の許可、普通選挙じの投票権対象者の拡大等を皇帝が宣言することで騒ぎは収まった。

しかしながら、皇帝はドゥーマを解散させる権限を持ち、
軍事、行政、外交を完全に支配し、立法関連のみドゥーマで審議させた。
(立法ですら皇帝が都合が悪くなると解散させていたが)

この時、最初のドゥーマの議員選挙に、後のソヴィエト国家を立てる「ボリシェヴィキ」の姿はなかった。
この頃の(政党としての)ボリシェヴィキは少数派だった。
その名前(ボリシェヴィキ、ロシア語で「少数派」)

結局、皇帝と貴族が国家権力の大半を支配する状況に変わりはなかったのであるが、
革命を狙う集団はこれによって一度は活動を低下させていった


二月革命(1917年)

1914年、サラエボ事件から第一次世界大戦が始まり、ロシアも参戦した。
「この戦争はそう長く続くはずがない」
誰もがそう思っていた。
というよりも、それまでの戦争は長く続けられることはなかった。
それまでの常識なら、一年以上戦争が続くことはあまりない。

補給や戦費の限界、防衛のための縦深の深さ等が意図せずとも戦争を長引かせなかった。
しかし、一次大戦はそれまでの戦争と違った。

世界初の先進国による国家総力戦。
なんとなく存在したルールや礼儀などが消え去った世界初の大規模戦争だった。

兵士の主体が傭兵と職業軍人で構成された時代は完全に終わり、
成年男性の国民全てが予備兵力として計上され、徴兵対象となる
国家の工業力、科学力、技術力、生産力、経済力。文字通り国力の全て。
国力の全てを戦争のために動かすことが出来た世界初の戦いだった

当然、ロシアも例外ではない。
国家経済は総力戦体制に移行し、国の全てを戦争のために動かした。
戦時経済は国民の生活を困窮させ、そのうえドイツに負け続きだったため

国民の不満は全て政府に向かっていた。



1917年2月23日
食料配給が日に日に悪化する中、ペトログラード(サンクトペテルブルグから改称)で食糧配給の改善を要求するデモが発生します。
このデモは特に暴動を伴うこともないデモでした

しかし、市内の労働者の参加が次第に増えていった。
その上、デモを鎮圧するはずの軍隊が反乱を始めた

兵士も国民、当然ながら農民や労働者階級の出身が殆どであった訳で、
負け続きで何のためにしているか分からない戦争に行くのは嫌だったことでしょう

下士官を射殺して反乱を起こす反乱兵は数万人にも達し、
首都周辺で反乱を起こしていない部隊は居ないような有り様でした


皇帝ニコライ2世は退位し、
ドゥーマの議長は議会を解散させて臨時政府を設置して政権を掌握した。

一方で各政党は政党と労働者や兵士による評議会を設置した。
評議会はロシア語でСовет ソヴィエト

国家としてのソヴィエトの名前もここから取られています。


ソヴィエトの権力は基本的に根拠が無いものだが、
労働者や(ペトログラード周辺の)兵士はソヴィエトを支持し、臨時政府の話は聞かなかった。

しかし、ペトログラード(サンクトペテルブルグ)ソヴィエトは
「臨時政府の指示はソヴィエトのものに反しない限り従うべきである」という通達をした。
国家権力を臨時政府とソヴィエトで分け合う姿勢を示した

これによって最高権力機関が2つあるという「二重権力状態」になるのであった。
(この時のロシアは明確な共産、社会主義では無かった点に注意)

7月事件

臨時政府は革命によって一次大戦から離脱したわけではなかった。
陸軍省、海軍省は臨時政府に引き継がれ、戦争は継続された。

6月にロシア陸軍は大規模攻勢を行うも、数日で頓挫
寧ろドイツから反攻を受けて前線を後退させる結果となってしまった。

攻勢が行き詰まると兵士たちの間での政府に対する不信感は更に強まり、

7月3日 首都ペトログラードの歩兵連隊は、 ペトログラード・ソヴィエト中央執行委員会が臨時政府に変わり権力を掌握するように求めるための武装デモを行なった。

しかしながら、ソヴィエト中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否。

他の地域から臨時政府とソヴィエトの決定を支持する部隊が到着すると
デモは中止され、失敗に終わった

以前、ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げていたが、
平和的な権力移行が不可能だと判断したボリシェヴィキは武装蜂起による権力奪取を決断した。

8月、臨時政府から軍の最高司令官に任命されたコルニーロフは
指揮下の部隊に対してペトログラードに進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた

軍の各方面の司令官もコルニーロフを支持したが、
ソヴィエトはこれに対向するため「対反革命人民闘争委員会」(つまりはソヴィエトの軍事部門)を設置し
ボリシェヴィキもこれに参加した。

この後ボリシェビキの中央委員会は投票を実施「武装蜂起は最早避けられない」
という宣言を採択した。

ペトログラードに接近した軍の兵士たちはソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、
上官の命令に従わず一発も発砲すること無く解散した。


10月、ペトログラード・ソヴィエトは「対反革命人民闘争委員会」を解体。
「軍事革命委員会」を設置した。
元々ペトログラード防衛のための組織だったが、
ボリシェヴィキは武装蜂起のための組織が必要だったために賛成。

トロツキーは「我々は権力奪取のための司令部を準備していると言われているが、我々はこのことを隠しはしない」
と演説し、武装蜂起の方針を認めた。

軍事革命委員会のメンバーは72人中48人がボルシェヴィキとなった。

また、軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し
臨時政府でなくソヴィエトの指示に従うことを決定した

10月25日(10月革命)
臨時政府は残った部隊を使って最後の反撃を試みた。
ボリシェヴィキの新聞の印刷所を占拠したが

軍事革命委員会はこれを受けて武力行動を開始。
印刷所を取り返し、発電所、郵便局、銀行などを制圧し、
「臨時政府は打倒された 国家権力はソヴィエトに移った」と宣言した。

最後に臨時政府の閣僚が残る冬宮殿が制圧された。
特に抵抗はなかったそうである。

これにより、二重権力体制は完全に終了。
臨時政府は終了したのであった。






く、くぅー・・・つかれましたー(ネタ抜きで)
コレでも終わってません。

資料読むのだけで3日程掛かりました。凄く複雑で何処を抜き出して描けばいいのかもよくわからないのでこんなに長くなったのかも知れません

次はソヴィエト権力の確立、ヴォリシェヴィキ政権、ソヴィエト社会主義国の誕生
そしてロシア内戦です。

まだ先は長いがウクライナの話をするのにこの当たりは飛ばせないという。

コンナモノを面白いと思う人は少ないと思いますし、ここまで読んでくれてるだけで感謝したいのですが
流石に手間かけすぎたかも…


とりあえずあとクリミア周りは最低4本ありますよ

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2014年4月14日月曜日

ロシアとウクライナ:クリミアの正当な統治者は誰?

さて、今ウクライナで一番アツいスポットであるクリミアですが、
所有者?というか統治する国家やらなんやらが結構入れ替わってます


10世紀頃、それまでの遊牧民族に変わりクリミアを支配していたのはキエフ大公国と黒海を挟んだ南にあるビザンチン帝国でクリミアを南北に分割していました

1025年のビザンチン帝国



モンゴルのルーシ侵攻によってキエフ大公国はモンゴル帝国が支配することとなり、
クリミアの支配権はモンゴル帝国から分割されたジョチ・ウルスと、
ビザンチン帝国の領域はジェノヴァとヴェネツィアが持って行きました
ジェノヴァの勢力図。右にクリミア半島と黒海があり、
イタリア半島の付け根にジェノヴァ本国がある
アドリア海に進出できていないのはもちろんヴェネツィアの領域だから。

14世紀末、ロシア(モスクワ大公国)の勢力が伸びるに連れてジョチ・ウルスは衰退
ジョチ・ウルスのうち、クリミアに居た部族も「クリミア・ハン」を興します

「ジョチ・ウルス」と「クリミア・ハン」の主要民族は「クリミア・タタール人」で、21世紀の今もクリミア人口の10%以上を占めます
タタールの人々は元々モンゴルから現在のカザフスタン辺りから移住してきた人達です

15世紀中頃のクリミア
北の白い部分が「クリミア・ハン」 ピンクが「ジェノヴァ」
緑色は「クリミアゴート族」
クリミア・ハン国はクリミアの全て、つまりジェノヴァの交易都市を抑えることは出来ませんでしたが
その後発生したハン国の内紛においてハン国はオスマン帝国に援軍を要請したため

ジェノヴァの交易都市はオスマン帝国によって攻め落とされ、ジェノヴァが持っていた都市と領域は
オスマン帝国の直轄領となり、クリミア・ハン国は援軍を得た代償としてオスマン帝国の属国となりました
しかしながら、限定外交権を持つ程高度な自治権が認められており、自主的な統治を行った

1600年頃の黒海周辺
現在のウクライナはクリミア・ハンとポーランドとモスクワ大公国に分割されている
オスマン帝国による欧州侵攻作戦が始まる1683年、
オスマン帝国はウィーン包囲を長引かせ、神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国、ロシア・ツァーリ国の4カ国による神聖同盟が誕生し、
4カ国でオスマン帝国に対向することとなり、「大トルコ戦争」が勃発。

ロシアは対オスマン戦を優位に進めて1700年、コンスタンティノープル条約
によって400年以上続けられたクリミア・ハン国はロシアへの貢納の取り立てを禁止された。
(この頃は属国クリミアハンのほうが立場は大きかったのに80年後のオスマンときたら…)

ロシアは帝政となり、更に南下政策を加速させていきます
狙うはもちろん黒海沿いの港町、できればクリミア半島のセヴァストポリが欲しい。


その後第一次露土戦争(1768-1774)でオスマン帝国はクリミア・ハン国の宗主国権を停止し、
名目上独立国とする「キュチュク・カイナルジ条約」によってクリミア・ハン国はロシアの影響下に入り、
1783年、オスマンを軍事的な脅威と捉えなくなったロシアは条約を一方的に破棄してクリミア・ハン国を併合。
(ロシア=露西亜 トルコ=土耳古 で露土戦争)

ロシアは獲得したクリミア半島のセヴァストポリに海軍艦隊と母港を置く事を決め、
クリミア半島には海軍関連のロシア人が大勢集まる原因になった

この後、第二次露土戦争(1787-1791)
第三次露土戦争(1806-1812)
第四次露土戦争(1828-1829)の全てにおいて帝政ロシアは勝利した。

クリミア戦争(1853-1856)で(フランスとイギリスと同盟して)ようやくオスマン帝国はロシアに対して勝利するも、
決定的な勝利では無かったためクリミアはロシア領のままになり、黒海の非武装化、ドナウ川河口周辺の領土の割譲という結果に終わった。
その上、その後の条約改正で非武装化はナシになった。

クリミア戦争の図。クリミア半島全土を占領していればオスマンはクリミアを取り返せたかも知れないが
補給線と戦費的に不可能だと思われる



また、クリミア戦争ではその名前の通りクリミアにイギリス・フランス・オスマン軍が上陸して戦場となり、
ロシア黒海艦隊の母港であるセヴァストポリで包囲戦が行われた。

また、この戦争によって一部のクリミア・タタール人はクリミアから逃げてしまい、
多くはオスマン帝国に移住した。

(割とどうでもいいことだが、ロシアとトルコの戦争は1568年から11回程発生しており、
第一次露土戦争は「帝政ロシアとトルコの戦い」として最初のものである)



現在のクリミアの民族と言語とか

この後、クリミア自治ソビエト社会主義共和国の誕生とか
独ソ戦でのドイツのクリミア上陸とかあるんですけど省略しまして、
クリミアとウクライナの民族の分布とかを見て行きましょう

まずはウクライナにおいてウクライナ語を母国語としする人たちの割合の図なんですが
ウクライナ全土の図 色が濃いほどウクライナ語が母語の人が多い
クリミア半島を見てみると真っ白なんですよね、2割下回ってる。

逆に、ロシア語はというと
ウクライナからロシアとの国境沿いにかけてかなり濃くなっています
(ウクライナ語のものと割合と色の関係が違うことに注意)
この図で色が濃い地域と現在独立運動が発生している地域はだいたい一致します


クリミアの人口の58%はロシアに帰属意識を持つロシア人で、
次にウクライナ24%、クリミア・タタール人が12%と続きます

これは、クリミアが帝政ロシアの支配下になってから長年貴重な不凍港として、
黒海艦隊の母港として重要視されてきた結果だと思われます

また、最近色々と問題になっている理由としては、1992年のクリミア州議会による独立宣言が妨害されたこと、
ソビエトの誕生によって東ウクライナの民族問題が90年以上先送りされたことが上げられるでしょう

逆に言えば、二月革命後にソビエトロシアがウクライナに来なけりゃ
二次大戦前には東ウクライナの国境線は何かしらの動きがあったと思われます


まあ、その辺りの詳しい話は次回、「帝政ロシアの終わり ロシア革命から内戦へ」で解説しましょう


(そもそもクリミアがウクライナであると主張できる要素があまり考えられないんですよねえ
タタール人はその前から居たから当然として、
コサックやヘーチマン国家、ルーシ人を由来とするウクライナ民族がクリミアを支配したこと無いし、
そもそも二月革命まで国家なき民族だったし)


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2014年4月13日日曜日

ロシアとウクライナ:帝政ロシア編 ~食料は売り捨てるものだ~

さて、1700年代、ウクライナは帝政ロシアに吸収された訳ですが

この頃のウクライナは自治権すら無いので、特に外国や外交がどうのなどという要素は有りませんが
この頃のウクライナでの生活と、その流れを追っていきましょう




1721年に誕生した帝政ロシアはウクライナを支配し、
ウクライナ人を「小ロシア人」としてロシアの一部として認識し、民族的な分類もそのようになされ、
ウクライナ語を「小ロシア語」と名づけました。

実際同じ民族かといえば、ウクライナはコサックを由来とする
遊牧と略奪と農業と漁業をする人達ですから、かなり違うものと思われます
(この頃の略奪活動はよくあることです)

実際にウクライナ・コサックの自治権が廃止されるのは1783年になります。
その後農奴制が敷かれるのですが、この農奴制というのが酷いものでした。

今回は、この農奴制を中心に書いていくとしましょう


そもそも、農奴制というのは「本来」
古代奴隷制よりも自由な権利を持つ「はず」の農民で、

世界中の何処の国にも居た「土地を持たない農民」の形態の一つ。
農奴は個人の財産と婚姻の権利があるのですが、

土地の移動に関する権利を持たず、「土地に縛り付けられた」存在です。
土地保有者の「土地」に付属する資産だったわけですが、
これはあくまで「中世の農奴」
西ヨーロッパでは時代が下って行くにつれて姿を消していきました…が


東ヨーロッパでは事情が違ったのです。
特にロシアにおいては

中世ロシアにおいては「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていました。
しかし、領主に対して負債がある農民は移動の権利が行使できなかったので、
多数の農民が土地に拘束されていたそうです。

しかし、この頃は負債さえ返せば領主に移動を制限する権利は無く、
領主に与えられる逃亡農民の捜索権と身柄引渡請求権は一年間のみ有効と定められている上、

南の「ドン・コサック」に逃げ込めば身柄を引き渡されることもなかったそうです
(この頃もロシアは東コサックの軍事力をアテにしていたため、
習慣法を理由に「身柄引き渡しには応じない」と言われれば引き下がる他無かった)

1600年代には逃亡農民捜索権・身柄引渡請求権の機関が無期限に延長され、
逃亡農民をかくまった場合多額の罰金が定められましたが
帝政ロシアの時代に比べればまだまだマシです




その後、帝政ロシアが誕生すると、
「人頭税」が設定されました

「人頭税」は国民一人につき一定額課すもので、
その額には納税能力など一切関係なく、どのような収入があっても一定額でした

このような税金を課した理由は、単純に「軍事費」でした
北方大戦争を終えて列強の一つとなったロシアの軍事費を確保するために人頭税が始まったのです
人頭税の徴収は軍隊の農村配備によって配置された部隊によって行われました。
自分達の飯の種ですから、徴収も見逃しがない様きっちり行われました



さらに時代が下ってエカチェリーナ2世が即位すると、更に悪化していきます

エカチェリーナ2世は貴族に支持されてクーデターを起こした結果即位したので、
政策も(皇帝から引きずり降ろされないためにも)貴族優遇にせざるを得ませんでした
(本人は逆に農奴制を緩和することを提案しているが、貴族の猛反対にあっている)

その頃英国では産業革命が発生しており、
農民の都市への流出とそれに伴う食糧生産量の低下によって食料を輸入せざるを得ませんでした
そのためエカチェリーナ2世は英露通商条約を結び、輸出関税を引き下げ、
イギリスに対して食料の輸出を始めたのでした。

領主たちは西欧に食料を輸出すれば儲かる事に気づき、
農奴に対する搾取をさらに加速させていきました

いつ認められるようになったのかは分かりませんが、
農奴はついに土地とは別の「資産」として扱えるようになり「土地に拘束された農民」という定義すら崩壊してしまいました
当時の新聞には
「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などという広告が掲載され
古代奴隷制と変わらない農奴市場が誕生していたことが伺えます

農奴はあくまで「移動と職業選択の自由がない農民」であって、土地ごと売買されることはあっても
農奴だけで売買されることは無かった。

農奴が土地、家畜、建物と同列の「資産」となったため、
農奴の主は土地を所有する封建領主だけだったはずが、「主人」という形に変わっていきました

当然、家族と引き離して売買することも出来れば
主人に不服申立てもすることは出来ない。
その上、主人には気に入らない農奴を「シベリア送り」にすることも認められた

家族と引き離されてシベリア送りにされた農奴たちに「家族でシベリアに送られたならば、主人の元で生活するよりどれだけ幸福であったか」と言わしめるほどこの頃の農奴の扱いはひどかった
(御存知の通り、シベリアは西ロシアに比べて農業もまともにできない上、冬には-40度になることなど当然で、そもそも帝政ロシア期は人がほぼ居ないため当然未開拓である)

逆に、貴族はどうかと言えば「ロシアで唯一の自由な身分」とされており、
租税、軍務を免除され、裁判は同僚のみによって裁かれ、
彼らを有罪とするには皇帝の許可が必要位という。分かりやすい特権階級であった

身分階級が「貴族」と「(農奴を含む)それ以外」などという有り様である。

エカチェリーナ2世の権力基盤が貴族からの支持であり、それを裏切れるほど強固なものではないため
ほぼ本人の意志に関係なく取り巻きの貴族によって政策が決められている有り様だった


更に時代が下り、
1850年辺りになると流石に農奴制も改善の兆しが見えてきた。


1825年にデカプリストの乱が発生。
これはナポレオン戦争でフランスなどへ行った兵士たちが
自国の悲惨な生活と比較して、自由主義と人権が唱えられる西欧との違いに衝撃を受けた事が発端とされ、
専制政治と農奴制の廃止、立憲代議制への意向を目的に反乱を起こしたが、
一日で鎮圧されるも後の二月革命などに影響を与えた

1861年、アレクサンドル2世が農奴解放令を発布したものの、
農地は無償で分与されるのではなく、
政府が規定する価格で、農民が負債を背負った上で地主から土地を購入しなければならなかった。
(これらの負債は1907年に支払い義務が停止した)

法的には農奴制は廃止されたが、負債と土地などの財産割り当てを理由として
農民の生活はかえって苦しくなったため暴動が各地で発生した。


そして一次大戦に入った後、「二月革命」が起きる。
(のですが、その前にクリミア戦争をやらなければ・・・)






かなりすっ飛ばし気味な上「本当にこの記事必要なのか?」といった感じなんですが、
ソビエトの生まれる原因としてよく挙げられますし、
ウクライナに関してはソビエトになってからも…

ロシア革命の前にクリミア戦争周りを書かねばなりますまい

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2014年4月11日金曜日

ロシアとウクライナ:列強の都合で消えたり現れたりする国家

さて、前回対戦車戦闘の話をするといったな
申し訳ない。アレは嘘だ



かなり評判と需要がありそうなので「ロシアとウクライナの歴史」でも書いてみようかと思います
(ただし、記事を書き終えた今更ながら、この記事は現在起こっている問題とあまり関係が内容にも思えます)

さて、8世紀頃のロシアとウクライナにおいては、「ルーシ」と呼ばれる国家があり、
これが今のウクライナの首都、キエフを首都とした国家を形成していました

「ルーシ」から「ロシア」という名前が付けられたと言われています。

10世紀にはルーシは国家の名前から国家集合体の名前に変わり、キエフ大公国とその周辺の小国家によって構成されるようになり、
後にロシアの基礎となるモスクワ大公国もその小国家の一つでした。
12世紀、モンゴル帝国のロシア侵攻によってルーシの国家は全てモンゴル帝国の支配下に組み込まれました。

そして、モスクワ大公国はモンゴル帝国の力を利用して勢力を拡大、ロシア・ツァーリ国に移行します。

時は15世紀、この頃キエフ公国(というか現在のウクライナ)は既にリトアニア、ポーランド、ロシア、クリミアによって分割されており、
今のウクライナの正当な先祖となる国家は存在しませんでした
(この場合のクリミアはクリミア・ハン国であってモンゴル帝国分割の結果発生したジョチ・ウルスが崩壊して残った国家の一つ)
1600年頃 クリミア・ハン国を中心としたクリミア周辺図
南にオスマン帝国、北東にモスクワ大公国(ロシア)
北西がポーランドとなっており、何処にもウクライナに相当する国家は無い

15世紀。ポーランドとリトアニアは連合国家となり、「ポーランド・リトアニア共和国」となり
今のウクライナに中る地域は「ポーランド・ウクライナ」と「帝政ロシア」の2つに分割されました
(あと、クリミア・ハン国)

そんな中、ウクライナ中等部で「コサック」という軍事集団が誕生。
これら「コサック」は欧州諸国の没落貴族と遊牧民と盗賊によって構成されていました。

コサックは2つに分けられ、西のポーランド・リトアニア寄りのドニエプル川を中心とする「ザポロージャ・コサック」
ウクライナの大半を占め、中心都市キエフも抱えているので、
こちらがウクライナの正当な先祖といえるでしょう

もう一つは東のドン川を中心とする「ドン・コサック」
ロシアのコサックというのはこちらで、その勢力圏は現在のロシア連邦と東ウクライナに含まれています

西のザポロージャ・コサックは西欧へ傭兵として赴き、
東のドン・コサックはクリミア・ハン国とオスマン帝国との争いを繰り広げるうちに強力になっていき
ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国から正式な軍事組織として認められるようになりました。

これはコサックの軍事力をアテにし、有事の際は軍に編入することを条件に
コサック独自の勢力圏を認めるということで、
実質的に自治権に近いものを認めたと考えられます

しかしながら、ロシアもポーランド・リトアニアも軍事力を当てにする割には
コサックの自治権の縮小とコサックの領地の没収による自国領拡大を続けていき、
これに対する反乱が多数発生していました

ザポロージャ・コサックの反乱は次第に独立運動へと変化していき、
1649年頃、ポーランド・リトアニアへの反乱が成功し外交権を得て実質的な独立。
「ヘーチマン国家」と呼ばれる国家が誕生します。
ヘーチマン国家の勢力圏
見事にドニエプル川に沿っている。
黒海沿いからクリミア半島にかけては「クリミア・ハン国」の領域

この時の反乱の際、ポーランド・リトアニアと敵対していたロシアやオスマン帝国に支援を申し出た事が
長きに渡るモスクワのウクライナ支配の始まりだとも言われています


一方東のドン・コサックはロシアへの反乱に失敗。
自治権は無くなり、ドン・コサックの領地は全てロシア領となってしまいました
(現在独立編入運動が発生しているルガンスクはこの際ロシアに編入)


「ヘーチマン国家」は軍事的、政治的に完全な独立は難しかったため、
オスマンやロシアに保護を求め、ポーランドとの戦争でロシアとともに戦ったヘーチマンであったが、初代指導者の死後ドニエプル川を挟んで勢力が分裂、

ロシア・ポーランド戦争は主に現在のウクライナを戦場にして戦ったため、
国土は荒廃し、ヘーチマン国家は衰退していった

1667年、アンドルソヴォ条約によってロシア・ポーランド戦争は終結。
ヘーチマン国家の処遇に関しては「ドニプエル川から西はポーランドに、東はロシアに」という結果となり、
この時、実質的にヘーチマン国家は滅亡。
ロシアが獲得した、所謂「左岸ウクライナ」
現在の首都キエフも含まれる

先祖どうこう言ってましたが、形式的にもヘーチマン国家を継承しているわけではないんですよね


次回は、ついに帝政ロシアの登場。
食料の圧倒的搾取と産業革命に伴う飢餓輸出までをやろうかなと思います



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2014年4月9日水曜日

ディズニーで覚える対戦車戦闘(本物)

えーとですね、タイトルは事実ですが中身は対戦車戦闘の話です。



現代において、戦車と歩兵が戦う際にはロケットランチャーや無反動砲は欠かせません。
RPG-7やバズーカなんかが有名です。

しかし、それらが現れる以前の時代にはどのように戦車と戦っていたか。というお話です





戦車の登場は御存知の通り、一次大戦にまで遡ります
イギリス軍のマークI戦車
一次大戦は、死体の山を積み上げる戦いでした。
それまで、数千年間用いられてきた歩兵による突撃は塹壕と機関銃の組み合わせによってことごとく阻止され、
日露戦争において既に機関銃と塹壕の組み合わせの凶悪さは垣間見えたものの、
欧州諸国はそこから学ぶこと無く、
歩兵の突撃は無意味であると各国が気づいた頃には既に数百万単位の死体の山が出来上がっていました

世界ではじめて発生した先進国による国家総力戦は
双方の国力を限界まで使い、すり減らし、死体の山を更に積み上げる。

そんな中、塹壕を突破するためにとある兵器が生まれました。それが戦車です

「トラクターに装甲を貼り付けた物」だとよく言われますが、基本そんな感じです。
しかし、機関銃の攻撃を物ともせず、歩兵の突撃速度を低下させていた鉄条網を踏み潰し
塹壕を乗り越えて走るそれは
まさしく「鋼鉄の動く盾」

歩兵から見れば非常に頼りがいのある存在でした…が

戦車も無敵では有りません。機関銃には耐えられますが野砲には耐えられない。
塹壕のはるか後方で砲撃を行う砲兵の一部を戦車対策に回せば撃破できるという事が分かり、
前線に野砲が配備されましたが、
ただでさえ砲兵が足りない上、野砲も足りない状況では全ての前線に野砲を配置できませんでした。

しかし、歩兵のライフルが使うのは機関銃と同じ7.7mm弾。
これでは戦車の装甲に弾かれてしまいます
そこで砲兵でなく歩兵が運用する対戦車兵器「対戦車ライフル」が誕生します

ボーイズ対戦車ライフル
当時の歩兵のライフルが7.7mm弾を使う物がほとんどの中、
13.9mmや14.5mm等の大口径ライフルで戦車の装甲を貫通させ
中のエンジンや搭乗者等に加害することによって戦車を無力化、または弱体化させようとしたのです

M82バレットなどの対物ライフルはこれらの子孫といった所でしょうか

そして、タイトルに戻ってきます。
それは1937年のこと。一次大戦からかなり過ぎていますが、
歩兵が、それなりの距離から戦車を攻撃する手段は当時対戦車ライフルしかありませんでした。

1937年。英軍はボーイズ対戦車ライフルを採用し、
その対戦車ライフルを導入したカナダ軍が教育用に「ディズニー」に制作させたアニメがあります
アニメの感じを見てもらえばわかると思いますが、ディズニーで間違いないでしょう。

(正直、かなり分かりやすく動画になってるのですが英語な上軍事に興味の薄い人だと分かりにくいかも)

同じ動画はニコニコ動画にも上がっていて、一部コメントで字幕が付いているのでそっちのほうが見やすいかもしれません






さて、動画でも出てきましたが、このライフルの使い方などを述べていきましょう

この頃の戦車では対戦車ライフルでは基本的に戦車に有効な被害を与えられません。
弱点に当たればいいのですが、そんなに正確に狙えるものでも有りませんし…

また、口径が大きく、弾も大きく銃も重いです。
銃に弾を装填した状態で21kgもあります。弾薬1発1kgとかいう世界。

しかも、衝撃で数発撃ったら肩は痛くなるわ戦車の近く(100m)まで近づかないと当たらないわで
本当に使える武器なのか疑問になりますが、
軽装甲車にはある程度有効だったそうです。
PIATやバズーカが出てきたらそのまま溶鉱炉に投げられた程度の性能と戦果でしたが。

次回は対戦車ライフル以外の対戦車攻撃手段を紹介しましょう。

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