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2014年3月12日水曜日

5分で分かる紛争解説:フォークランド紛争

ちょっと現行の問題とは言いがたい物をお題にしてみましょう
今日はフォークランド紛争の記事になります


今回は5分で分かるようにフォークランド紛争をまとめてみましょう


アルゼンチン・イギリス・アセンション島・フォークランド諸島・サウスジョージア島の位置が分かる地図


1500年頃ヨーロッパ人に発見される

イギリスとフランスが半分づつ占領した後、フランスがイギリス人をフォークランドから排除。当時アルゼンチンを植民地としていたスペインに売却される

アルゼンチンがスペインに対する独立戦争を開始。その際フォークランドに対してイギリスが海軍を派遣
スペインはフォークランドから撤退し、イギリスが実効支配を開始

独立後安定してきたアルゼンチンによる領有宣言と捕鯨税の徴収開始。
アメリカの捕鯨漁船が拒否したためこれを拿捕、「フォークランドはイギリス領土である」とした
アメリカは海軍艦艇を派遣してフォークランドに上陸。

アルゼンチンに対するイギリス資本の流入が加速。
アルゼンチンは経済的発展を手に入れるも、
イギリスとの外交関係を懸念してフォークランドの領有権主張はしなくなる

2次大戦後、大英帝国の終焉と衰退。植民地が次々と独立し、海外領土の大半を失う
フォークランドは残ったものの、英国病と呼ばれる経済的停滞と財政難によって
フォークランドへの行政サービスは停止され、
代わりにアルゼンチンが一部の行政サービスを無償で行い始める

一方のアルゼンチンは戦後経済も政治も安定せず、
クーデターに始まる軍事政権、独裁体制や内戦が度々発生
更にハイパーインフレを起こし、国民の不満は募るばかり

新大統領に就任した当時の陸軍司令官は、
国内の不満を外に逸らすためにフォークランドを利用。
民衆の間で「フォークランド奪還すべし!」の声が高まり、
一部の活動家が無断で上陸して主権を主張するなどの事件も発生していた

イギリスとアルゼンチンの間で返還交渉は何度か行われたが、
「住民投票による選択が絶対条件」とするイギリスと
「無条件での返還」を要求するアルゼンチンの交渉は平行線に。全く進歩しなかった

1982年3月19日
アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島の東にある英領サウスジョージア島に民間人を上陸させ、
大統領官邸には大統領の決定を支持する国民が集まった。

イギリスのサッチャー首相はサウスジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出し、
圧力を掛けるべく原子力潜水艦の派遣を決定。

4月2日にはフォークランド諸島にアルゼンチン陸軍4000人が上陸。
フォークランドに居たイギリス軍戦力は79名の海兵隊員のみ。
アルゼンチン軍に戦死者1名、
イギリス軍に死傷者が出ないままイギリス軍は降伏し、海兵隊員は中立国経由で本国に送還された

同日サウスジョージア島にもアルゼンチン海兵隊500人が上陸、
23名の英国海兵隊員は2時間の戦闘後に降伏。
同様に中立国経由で本国に送還された

英国は機動艦隊の派遣を決定。
軽空母2隻を中核とした派遣艦隊が編成された
また、戦略爆撃機による超長距離爆撃も実施されることになった。

4月末
英国海軍の派遣艦隊がフォークランド近海に到着。
5月には逆上陸を開始。

6月13日 海上戦において少なくない損害を出すも、
英軍はフォークランドでの陸上戦に勝利。
アルゼンチン軍は撤退する。

アルゼンチン大統領が戦闘終結宣言を出すも、
「海賊英国」「大統領万歳」を連呼していた国民も敗戦に対してかつて無いほどの反軍感情を高まらせ、
30年程続いたアルゼンチンの軍事政権はあっさり終了。
逆に紛争前に明らかな不人気であったイギリス首相サッチャーの人気はここから一気に上昇することとなる

現在、アルゼンチンは領有権主張をやめては居ないものの特にこれといった行動は無く、
政治家がフォークランドについて語ることはほぼ無くなった。
また、住民投票が行われ、現在もイギリス領である。



とりあえず、5分で分かるようにまとめてみました。
紛争の実際の動きや詳しい解説はまた次の記事で。



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