今回はちょっと詳細に。
アルゼンチン・イギリス・アセンション島・フォークランド諸島・サウスジョージア島の位置関係がわかる地図 |
フォークランドは(ヨーロッパ人的には)ポルトガル人が発見したとされ、
正確に記録に残したのはイギリス人と言われており、これが現在イギリスが領有権を主張する根拠とされている。(1520-1592)
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アメリカ独立戦争の前後を狙ってフランスが占領、フランスの領地となる
翌年当時アルゼンチンを保有していたスペインに売却される。
40年後にアルゼンチンで独立運動が始まり、独立戦争が始まる。
米英はフォークランド周辺に海軍を派遣、スペインに圧力をかけ
スペインはフォークランドから撤退、
この頃には捕鯨や、太平洋と大西洋を行き来する途中の補給拠点として用いられていた。
(1774-1810)
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アルゼンチンによるフォークランド領有宣言(1820)
その後、周辺で捕鯨をしている漁船から国籍を問わず捕鯨税を取ることを決定し、
支払いを拒否した米国籍の漁船を拿捕、
「領有権はイギリスにある」とした米国は海軍艦艇を派遣して上陸、
島の中立を宣言する(1829)
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イギリス軍が海軍艦艇を派遣、全く抵抗を受けず無血占領。(1833)
アルゼンチンは抗議するも、ウルグアイ情勢の悪化のため諸島奪還は実行できず
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英国によるアルゼンチンへの資本流入が加速
アルゼンチンは英国に経済的に従属する代わりに経済的に繁栄。
外交関係悪化回避のためフォークランド諸島の領有権主張はなされず、うやむやになる
(1860-1900頃)
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大西洋と太平洋を結ぶ補給拠点として軍事的に重要な位置を占め、
パナマ運河が出来た後も迂回路として維持されるも、
二次大戦後に植民地が相次いで独立、海外領土の大半を失い
世界覇権をアメリカに奪われた英国にかつての力はなかった
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フォークランドは残ったものの、パナマ運河が出来てからというもの経済的重要性は落ちたが、
大西洋都太平洋を結ぶ、破壊されない海上ルートとして重宝された。
しかし、英国は英国病と呼ばれる経済的停滞と財政難が発生しており、
フォークランドにおいて、医療などの行政サービスまで手が回らない状況であった。
これを好機と捉えたアルゼンチンは、フォークランドでの医療サービスを開始。
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一方のアルゼンチンでは内乱内戦クーデターなどが
戦後の数十年間で数回発生。結局軍事政権となり、
1981年、前任者が天文学的なインフレを発生させて失脚して
次に大統領になったのは当時の陸軍司令官。
フォークランドを取り戻すのは戦前から多くの国民が望むことであり、
大統領もフォークランドを国内の不満を国外にそらすために用い、
国民にも「フォークランドを軍事行動をしてでも取り戻せ!」という声が大きくなる
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英国もフォークランド返還を全く考えていなかったわけではなく、
「住民がアルゼンチンを選択するならば、それを尊重する」という立場だったが、
アルゼンチン軍事政権は無条件返還を要求。
交渉は平行線で全く進歩せず。
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アルゼンチンでフォークランド諸島奪還を主張する声が更に大きくなり、
ついには政府がやらないのなら民間で義勇軍を編成してフォークランドを占領しようという動きすら出てきた。
もはや民意を止められないと判断したウクライナ政府は
『イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る』
と、イギリスに最後通告とも取れる声明を発表し、
アルゼンチンはついに軍事侵攻へと踏み切る。
フォークランド侵攻
駆逐艦7、フリゲート3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された艦隊をフォークランドへ出撃させる。
揚陸艦と輸送船には陸軍4000名の将兵が乗っていた。
旗艦「ベインティシンコ・デ・マジョ」 |
ロザリオと命名されたこの作戦で投入されたアルゼンチン兵は900名。
対するイギリス軍は42人。
戦力差は明らかだったが、イギリス軍は交戦を開始。
アルゼンチン側は先遣隊の指揮官が戦死し、隊員3名が負傷。
その後本隊が到着して戦力差を把握したイギリス軍は降伏。
当初、国際的な批判を回避するためにイギリス側に死傷者が出ないように配慮されたためか
イギリス側に死傷者は無かった。
戦力差は明らかだったが、イギリス軍は交戦を開始。
アルゼンチン側は先遣隊の指揮官が戦死し、隊員3名が負傷。
その後本隊が到着して戦力差を把握したイギリス軍は降伏。
当初、国際的な批判を回避するためにイギリス側に死傷者が出ないように配慮されたためか
イギリス側に死傷者は無かった。
4月2日 イギリス海兵隊が降伏した後のフォークランドでのアルゼンチン軍LVTP7装甲車と海兵隊員 |
一方英領サウスジョージア島でも
3月19日、アルゼンチン海軍の輸送艦がサウスジョージア島に突如来航。
数十人のアルゼンチン人が物資を港に下ろした。
彼らはくず鉄業者を名乗り、20年以上前から放置されていた捕鯨工場の解体が目的で
英国政府からの許可はもらっていると主張したが
正規の入国手続は行われていなかった。
現在も放置されたままの捕鯨工場 |
当時サウスジョージア島に滞在していた南極観測隊員はこの事態を本国に報告したが、
英国政府はアルゼンチン側が軍事行動を起こすとはこの時点で考えておらず、
海兵隊を載せた巡視船を向かわせることになり、
アルゼンチンに対しても抗議を行ったものの、反抗的な態度で相手にされなかった
結局、輸送艦は数名の人間と物資を残して港を出たが、
下ろした物資は武器、弾薬、食料などの軍事物資で、残ったアルゼンチン人は海兵隊員であった
3月25日
アルゼンチン海軍の砕氷船が海兵隊員500人を載せてサウスジョージア島に来航
兵員を上陸させて港に陣取った。
戦力差は歴然としていたがイギリス海兵隊は港から離れた場所に防御陣地を構築して抗戦の構えを見せた
4月1日
アルゼンチンによるフォークランド進行が始まり、同日に
アルゼンチン海兵隊による国旗掲揚式、国歌斉唱、そしてアルゼンチン施政下に入ったことを宣言し
サウスジョージア島制圧作戦を開始した。
イギリス軍に対して降伏勧告を出すも、拒否されて戦闘が開始された
2時間の戦闘中にアルゼンチン軍はヘリコプターを撃墜されて2名が戦死、4名が負傷した
イギリス軍の防御陣地は強固で、アルゼンチン海兵隊は海軍艦艇に支援を要請するも
イギリス軍の無反動砲やロケットランチャーによる攻撃によって機関砲を損傷
戦死1名負傷者5名。対艦ミサイル発射装置や主砲も使えなくなった
2時間の戦闘の後、イギリス軍は降伏。
軽傷1名のみだった。
ちょっと長くなりそうなので今日はここまで。
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