イギリス軍の逆上陸
5月4日、フォークランド諸島の敵施設を爆撃していたイギリス海軍のシーハリアーが撃墜され、シーハリアーに初めての損失が出る
5月9日 イギリス側が上陸地点に関する情報収集を強化。
SBSが閉鎖海域に入り込んでいたアルゼンチン漁船を強襲して拿捕。そして沈没させた。
戦闘海域に入ってくる漁船なんて大概ろくでもないことしかしないので当然の措置である。
5月9日 イギリス側が上陸地点に関する情報収集を強化。
SBSが閉鎖海域に入り込んでいたアルゼンチン漁船を強襲して拿捕。そして沈没させた。
戦闘海域に入ってくる漁船なんて大概ろくでもないことしかしないので当然の措置である。
ペブル島襲撃
5月14日から16日にかけて、特殊部隊SBS及びSASによる上陸と破壊工作が行われた
フォークランド諸島のペブル島に駐機していたレシプロの軽攻撃機を破壊するために深夜、45人の
SAS隊員を載せた2機のヘリがペブル島飛行場から6kmの地点に降下、
そこから徒歩で飛行場まで移動し爆薬やスーパーバズーカ、迫撃砲等を用いて計11機の航空機を破壊した後、速やかに撤退した
これにより、フォークランド諸島での航空機による対歩兵航空攻撃の脅威が低下した
ペブル島に駐機されていた「プカラ」攻撃機 |
サン・カルロスの戦い
イギリス軍はアルゼンチン軍が多く駐留している東フォークランド諸島への上陸を決定。
橋頭堡としてサン・カルロスを確保することを決定。
サン・カルロスへの上陸作戦を開始した
フォークランド諸島は西と東に分かれており、A地点がサン・カルロス B地点がペブル島 |
アルゼンチン軍の中核かつ、フォークランド諸島の首都、スタンリーへの進撃を始める。
スタンレーへ行軍するイギリス軍 |
アルゼンチン海軍のイギリス海軍鑑定に対する航空攻撃
サン・カルロスに物資を輸送している間にもアルゼンチン海軍の攻撃は行われた。
5月21日にはフリゲート1隻が撃沈され、
23日にも同型艦のフリゲートが沈められ、
25日には駆逐艦と輸送艦が撃沈された。
フォークランド諸島で撃沈された21型フリゲート「アンテロープ」 |
攻撃を受けるフリゲート「アンテロープ」 |
徴用輸送艦「アトランティック・コンベアー」 クイーン・エリザベス2同様、民間船だが 軍が徴用して輸送艦として使われた |
攻撃を受けた後の「アトランティック・コンベアー」 この数日後、浸水が悪化して沈没 |
4日間でフリゲート2隻、駆逐艦1隻、徴用輸送艦1隻、計4隻の大型艦が失われた。
英国内では「マレー沖海戦以来の失態」だと言われ批判された
※マレー沖海戦
太平洋大戦開戦直後の1941年12月10日、
英国海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が
日本軍の航空機による対艦攻撃で撃沈された戦いである。
プリンス・オブ・ウェールズはその年の1月に就役したばかりの最新型艦であり、
それまで航空攻撃で撃沈できないとされていた戦艦、それも最新の戦艦を
航空攻撃のみで撃沈したことにより世界中が衝撃を受けた。
戦艦の時代を終わらせた戦いとよく言われる。
グースグリーンの戦い
サン・カルロスを起点とする東フォークランドでのイギリス軍進撃ルート図 左上に上陸地点サン・カルロス その下に激戦地グース・グリーン 一番東が首都スタンレー、その西にケント山がある |
5月28日から5月30日にかけて、
グースグリーンではフォークランド紛争最大の陸上戦が行われた。
1600名のアルゼンチン軍守備隊と450名のイギリス陸軍空挺連隊が交戦を開始。
イギリス側は大隊長が戦死するなど被害を受けるが、
方や歴史ある英国陸軍のエリートたる空挺部隊、方や正規軍とはいえ徴兵と新兵の集まりである。
次第にアルゼンチン軍は半包囲されていき、降伏した
イギリス側の戦死者は17名、アルゼンチン側は250名余りであった。
炎上するグースグリーンの学校 |
グースグリーンの戦い30年を伝えるニュース 実際の映像、写真有り
ケント山の占拠
サン・カルロスから直接スタンレーへ向かった部隊は、アルゼンチン軍が占領する首都スタンレーを西側から直接見下ろせるケント山を攻略すべく行軍した
東側からスタンレーを撮影。街の向こうにケント山が見える |
その夜に練度の高いアルゼンチン軍のコマンド部隊が山を取り戻すべく
イギリス軍と交戦。結局コマンド部隊は山を取り戻すことは出来ず、
イギリス軍はスタンレーを包囲する第一段階としてケント山に陣地を構築した
その後、スタンレーの包囲を確実なものにするため、
6月8日にはさらなる上陸作戦を実施するもアルゼンチン空軍による攻撃で揚陸艇が撃沈されるも、大半の部隊が上陸に成功。
6月13日、英軍が何度も降伏勧告を行うが、アルゼンチン軍のスタンレー守備隊はこれを拒否
英軍はスタンレーに対する全面攻撃に踏み切った。
スタンレー周辺の作戦図 |
この頃アルゼンチン軍では敗戦ムードが漂っており、士気は崩壊寸前だったが、
一部の練度が高い部隊との戦いでは英軍も苦戦を強いられた。
果てには接近戦闘になり、手榴弾の投げ合いや銃剣による白兵戦すら発生した。
二次大戦から自動火器や装備が発達した1982年でも銃剣戦闘は発生したため、この戦訓として英軍は未だに銃剣を信じ、また利用している。
翌日14日にはイギリス軍がスタンレーのすぐ外にまで接近し、
アルゼンチン側は正午に降伏。9800人の兵が捕虜となった。
スタンレーにて、降伏して捕虜となったアルゼンチン軍兵士 |
降伏した後回収されたアルゼンチン軍の武器及びその他装備 |
戦闘の終結
スタンレーの陥落により、ほぼ全ての陸上戦力を失ったアルゼンチン軍は敗北した。
翌日にはアルゼンチン大統領が「戦闘終結宣言」を出すも、
兵士同様敗戦ムードにより既に求心力を失っており、二日後には失脚、
30年程続いてきた軍事政権はあっさり終了してしまった
くぅー 疲れ(ry
しかし、これで終わりじゃありません。
戦争は評価や戦訓、その後の外交関係も重要な要素です
なので、次回は「戦後と紛争の評価、そして現在」の記事を書きます
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